加賀

来月旅行予定の金沢について少しは知っておくべきかと思って、図書館で借りてきた本を適当に読んでいて、加賀百万石の礎を築いた前田家についてだとか信長とか秀吉とか家康とか、ひたすら戦にあけくれるばかりだった時代のことを、あらためて思うに、これはもはや、どう考えても、我々と地続きの人間達の所業とは思えない、とんでもない獣たちが暴れまわった痕跡そのものだなあと今更のように感じる。というか、あまりの凄惨と酷さに、しばしぼんやりしてしまう。

谷崎潤一郎の時代物なんかを読んでも同様の気分になるけど、なにしろ戦国時代というのは、獣同士の殺し合いであり、戦果を上げれば称揚されるけど、切り取った敵兵の首を何千も並べたりするわけで、その光景を想像するだけで、これはもう異世界の異なる生物による時空間ではないかと思いたくなるし、でもその異世界で、政略結婚とか人質とか裏切りとか、ものすごく生臭くて人間臭い"政治"もたっぷりと盛り込まれていて、つまりそれこそが人間の所業であり人間らしさであり、その虚栄と臆病と猜疑と身勝手さにほとほと嫌になるというか、読んでいて疲れ果ててしまう。しかしこの時代だけが突出して酷いわけではなく、人間の歴史なんておおむね酷いことばかりで、ことに二十世紀はひときわ酷い。

しかし文化や芸術の営みというものも、有史以来、途絶えた事がないのだ。

前田利常は加賀における文化芸術の隆盛に重要な役割を果した、とはどういうことか。利常だけが、他と違って芸術を理解する高尚な人物だったということでは、おそらく全くない。

たぶん人間=悪、でも文化芸術=善、みたいな単純な話ではなく、あるナチス高官は自らの組織が実行しているユダヤ人に対しての行為に加担しながら、当時の芸術を心から愛し慈しんでいた。それとこれとが、平然と別に成立する、そのような人間もいた。いや、僕も含めたほぼすべての人間が元々そのような属性をもち、今もそのような二重性を生きているのだ。
歴史の古い街を訪れて、その建築や景色を見ることには何の意味があるのか、言葉で言い表わすのは難しい。ただ、今見えているものとは違うかつての景色を幻視したいとの思いはある。それは必ずしも美しくはないはずで、目を背けたくなるような惨たらしいものでもあったはずなのだが、むしろそういうものを想像することの方が難しいのだが、なにしろこの景色は、おびただしく積み重なったそれらの渾然となったものであるはずだということ。

生きるというのは、幸福を勝ち取るために闘争の構えをとることでもあるだろうが、そのようなすべての"構え"から距離を置き、ただ見るということでもあるはずだ。しかしその"ただ"というのが難しい。それが"構え"から逃れられているわけではないだろうから。