花の絵

RYOZAN PARK巣鴨保坂和志トークへ。以下、話を聞きながら、自分が勝手に思ったこと。

文章はもともと線的構造をもっていて、時間に沿って進行する形式であること。しかし知覚は一挙的であり並列的であり波紋のように広がるというときに、知覚的=哲学的と考えて良いのかわからないが、哲学も一挙的・並列的で、波紋ような思考の広がりとして捉えられるべきだと考える。

わかること=視覚に落とすこと=防御、という罠に陥らず、哲学を知覚として思考する(知覚=理解の手前の段階)。

知覚やまだ直感段階でしかない哲学的思考の断片が、言葉でできるだけリアルに再現されることを期待するのではなく、言葉そのものが、本来の制限的な形式をもつにもかかわらず、ある一挙性や並列性をたたえながら働くような状態を想像してみる。

子供が描いた花の絵は、ほとんどの子供が、花を見て描くのではなく花の絵のお手本を見て描いたもの。花を知覚したとき、それは一挙的であり並列的であり、波紋のように広がるが、花の絵は固定形式として知覚する。(一挙的、並列的、波紋的に知覚する場合もある。)

花を見て花の絵を描くのでも良いし、花の絵を見て花の絵を描くのでも良い。どちらが正しいとか間違っているとかではない。花の絵を見て花の絵を描くことに一生を賭けて、それでやっていける人もたくさんいる。

花を見て花の絵を描く人の興味は花だが、花の絵を見て花の絵を描く人の興味は絵であり、それが絵とされていること、絵というものがこの世の中に成立済みとされている状況とか、あるいは花の絵を描いたこの私が世の中に成立したとされる状況かもしれない。しかし何への興味・関心であっても、間違いでも正解でもない。

(花を描きたい人がいる。花の絵を描きたい人もいる。絵など描きたくない人もいる。かつて描いていたけどそんな過去を忘れてしまった人もいる。描きたいとは思うが一度も描かない人もいる。描きたいはずだと思い込んでいるがじつはそうでもない人もいる。描く人は、描かない人から、馬鹿にされたり揶揄されたり、そんな無駄なことを考えず有用なことに時間を使えなどと云われたりするかもしれない。また、描く人は、描かない人のことを、心の底では馬鹿にし、軽蔑しているかもしれない。いずれにせよ、描く人も、描かない人も、上手く仲良くやっていくために、やさしく、気遣いや配慮で支えあい、災害に備えたりもしながら、協力し合えれば良いのだが。)

(毎度のことだが、自分はどうなのか、どのグループに含まれるのかが、いつもわからないと思う。「精神のありよう」が脆弱すぎる。まあ、ここまで来たら、もう仕方がないことだし、もはやどうでもいいことだけれども。)

(『美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない』のであれば)「つまらない花の絵」はありうるが、「つまらない花」はないとは言える。また「素晴らしい花の絵」もありうる。「つまらない花の絵」を見て花の絵を描くのはバカバカしいと思うが、「つまらなさも」人それぞれの感覚によるもので、それを誰にとっても明確に「つまらない」と断定できる根拠はない。

(作品をつくるために必要なこと。『創作の全過程は精神分裂病の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。(中井久夫)』「できそう」という、よろこばしきイメージを胸の内にもつこと。けっこう大きく、ぼやっと、手応えのある何かを思い浮べることができるか。できそうでもあり、できなさそうでもある。)

過去にも色々試したが、今のところすべて失敗している。