坂田一男 捲土重来

東京ステーションギャラリーで「坂田一男 捲土重来」展を観る、本展監修者は岡﨑乾二郎。坂田一男(1889~1956)という画家を、僕ははじめて知った。しかしかなり昔に画家の出身地である岡山県岡山市立美術館にも行った際、常設展示などで観ている可能性が高いけど、その名前に今までおぼえがなかった。作品としては、どこかで観たことあるかも…といった印象で、単体で観たときにやはりどうしても日本のキュビズムに特有の地味さというか、重たくて野暮ったいイメージを感じなくはないのだだが、その画業全体が包括されたような今回の展示を観て、その作品展開にともなう緊張と迫力にはかなり魅了された。やはり一作家の回顧的な展示として観ると面白いし、時系列・制作順の展示がされたときにはじめて見えるものも絵画にはあると思うのだが、ただし坂田一男はそのリニアな時間の流れに作品を位置づけることへの否定(無関心?躊躇?)といった側面もあると、会場内の解説にあった。本展覧会はこの各部屋に掲げられた解説文がじつに面白くて、ふだんの展覧会だとほとんど読まずに素通りするけど今回は作品と共にそれらの解説をも丹念に読み込むことになった。

台風による冠水によって、自身のアトリエが浸水し多数の作品が破損し失われたというエピソードが紹介されていて、画布から絵の具が甚だしく剥落した作品が展示されているのだが、これは冠水後、作家本人が出来る限り修繕した結果らしく、しかもその出来事以降、次作においてわざわざ絵肌の一部へ同じような絵肌の剥落を生じさせ、それも絵の一部と為す、まるで事後的アクシデントの時間を逆行して、あらかじめ作品内に含みこませようとするかのような試みが見られる。

そもそも、坂田一男の作品には年号の表記されたものが少なく、よって制作年を特定するのが難しい作品が多い。また時代が大きく異なるエスキースが同一の紙の裏表に共存していたりと、とにかく作品を時系列的なアーカイブ内にきれいに収まるようなものにしたくない(興味がない)という感じがある。

渡仏中はレジェに師事したとあり、初期の作風は如何にも(1910年代までとは違うある種の洗練と様式化をともなった)「後期キュビズム」といった感があるが、やがてコンポジションに対する独自の考え方と試行が生じ、いくつかの特長的モチーフがあらわれ、坂田一男的スタイルとでも言いたい何かがあらわれてくる。じつは観始めた最初の段階で、これはけっこう難しい絵だ、チューニングが合わせ辛い、いまいち入っていけないかも…などと感じていたのだが、二室目が始まってからの、いくつかの作品に共通する導線的運動を見い出したあたりから作品が見えるようになって、後はひたすらどの絵も面白くなった。

キャンバスの上から下へ、ストンと縦線を入れてしまうことで、絵画はある空間を確保するのだが、同時にその空間以外を閉め出してしまう。絵画にとって線は、ことに上下を刺し貫く線は、それだけでゲームオーバーな最後の行為とも言える。浮遊していたはずのあらゆる可能性が消えて、静止空間が出現する。但しまたここから、異なる出来事を重ねていこうとする試みが絵画だ。異なる相に属するもう一つ別の線を引くことだ。本来共存しないはずの何かが重ね合わされる、その可能性を確実性に変換するのが制作である。

また別の解説においては、その画業が国内外における同時代や後世の画家たち、たとえば坂本繁二郎、山下菊二、モランディ、ド・スタール、ディーベンコーン、ジャスパー・ジョーンズらの仕事の問題意識としっかりと響き合っていることを、それら作家たちの作品展示と共に指摘している。これは日本の中央画壇から終生離れて活動した地方画家が、国内外の美術や文化の動向を情報として入手できた/できないとか、勉強の有無とかそんな話ではなくて、画家が絵画について突き詰めて考えることを徹底すると、国や環境や諸条件を越えて、異なるはずの作品が否応なく同じ要素を共有してしまうことを示しているだろう。いわば互いが互いを知ることなく、結果的に並走状態になるような事態を示しているだろう。

会場規模の割に作品展示数は多く、それはタブローに比してエスキース・素描の展示数に割合が多く割かれているからだと思うが、制作年不明の作品も多いため、全体の印象にすっきりとした感はなくむしろ混沌というか大量の筆致的なざわめきというか解決に至ることのない蠢きのような残像が強く印象に残る。最後まで観ると相当な疲労感だけど、画家としての強靭さ、継続の機関車のようなパワーにはうたれるものがある。解説にあったが、坂田一男が戦前から戦後にかけて、戦争という圧倒的な暴力的破壊に止まることなく、ゆるぎなく仕事を継続できたのは、戦争のもたらす空前絶後の暴力性、そのカタストロフが、もともと絵画を思考する変遷過程に、既に含まれているからではないか、その中心で模索するということが、絵画を思考するということであり、それはかくも力強いものなのだと。この世を生きるうえで抽象やら思想やら哲学やらが、いったい何の役に立つのか、そんな愚問に耳を貸す必要はない、ただ考え抜くこと、それを続けること、たとえ殺されても止まらないことだけをもって答えとすれば良いのだ。会場に並ぶこれらの仕事がその証としての、時代や人間の時間的有限性を越えたまさに"抽象の力"そのものの現前と言えるのではないだろうか。