デッドライン

千葉雅也「デッドライン」を読む。面白かった。この主人公はゲイで、僕はゲイ的な感覚をこれほどはっきりと自らの感覚のように感じ取ったのははじめてのことだ。自分にとってとても重要なことが書かれていると思った。以下にいくつか引用する。

渋谷センター街から横道を入って、井の頭通りのちとせ会館の前に出る。その上にある日焼けサロンに行く。ロッカールームにうようよいる冬でも真っ黒な男たちを見て、なんでこんなイケメンが女と付き合うんだろうと不思議な気持ちになる。こんなイケメンならイケメン同士で付き合えるだろうに。ゲイは数が少ないのだという実感がなかった。街で見かける男のほとんどがノンケだなんて、嘘みたいに感じる。この無数の男たちが女しか好きにならないなんて、僕を騙すための壮大なドッキリなんじゃないかと思う。
 金髪と黒い肌のコントラストが鮮やかな、小柄な男がいる。付きすぎていない筋肉の起伏が、上等な木を使った家具のように美しい。こんなにかわいいのに、つっぱって、男らしく、女を引っぱっていこうとするに違いない。もったいない。バカじゃないのか。抱かれればいいのに。いい男に。

荒々しい男たちに惹かれる。ノンケのあの雑さ。すべてをぶった切っていく速度の乱暴さ。それは確かに支配者の特徴だ。僕はそういう連中の手前に立っていて、いや、その手前で勃っていて、あの速度で抱かれたいのだ。批判されてしかるべき粗暴な男たちを愚かにも愛してしまう女のように。
 僕は女性になることをすでに遂げている気がする。物理的にメスになるのではなく、潜在的なプロセスとしての女性になること。僕の場合、潜在的に女性になっていて、動物的男性に愛されたいのだが、だがまた、僕自身がその動物的男性になりたい、という欲望がある……

そしてこれも卒業間近だった。〇〇君って好きな人いるの、と女子のグループに聞かれた。その中には好きだった女子もいた。後に同窓会の常連になる由美ちゃんもいた。僕は、結婚するなら由美ちゃんみたいなしっかりした人がいいかもね、と答えた。じゃあ、本当に好きな人は?と聞かれた。そう聞いたのは由美ちゃんだったかもしれない。息が詰まった。いま言わなければもうチャンスはないと思った。だがどう言えばいいのか。僕はあの子の方を見た。そして、
「君だとしたら?」
と言った。
ええ?とはにかんだ。返事はなかった。
だとしたら、というのは、もちろんぼかして言ったのだった。でも、それだけでなく、彼女への欲望自体が「だとしたら」の仮のものだった---としたら、どうだろうか。
 男と女が、越えられない距離を挟んで相手を対象として愛する。それが普通なのだった。その中で強いられて答えた「君だとしたら」から、強いられた男女の距離を削除し、男と女が互いに「なる」ような近さへと入るならば、その台詞の本来の意味は、
 「君が僕だとしたら?」
であるはずだ。

その子に対して性欲があった。
 当時、自分が性器に挿入するというイメージが不明瞭だった。顔、乳房、尻、脚---各部に魅力があったが、性器はよくわからない。ある日こっそり買ったエロ本の写真で、水に濡らしたパンツに毛の生えた女性器が透けているのを見た。親類以外の女性器を見た記憶はそれが最初かもしれない。ぎょっとした。気持ち悪かった。だが、この気持ち悪さがエロさなのだ、とも思った。それで自慰もした。
 彼女への欲望は、彼女をどうしたいということだったのだろう。抱く、というより、その身体に行く、その身体という場にイク、ある距離が間にあって、彼女「に対して(傍点)」射精するのではない。たとえ挿入するのだとしても、変な言い方だが、「挿入側(傍点)」として挿入するのではない。「挿入側として」という分離なしで、彼女の身体への一致として挿入する、のかもしれない。それは、言い換えれば「彼女になる」ことではないだろうか。彼女になって、彼女自身が自らに挿入してイクような状態ではないだろうか。