時代・景色・人

RYOZAN PARK巣鴨保坂和志の小説的思考塾vol.7へ。いつもながらいつにもまして、小説を「書きあぐねている人」に向けた、大変実践的な内容だった。配布された手書きメモと自分の記憶を頼りに、以下メモ。

時代を丁寧に扱わなければいけない。1964年にウィズ・ザ・ビートルズのLPレコードを大事そうに抱えて学校の廊下を歩いている女子高生とすれ違うというのは現実ほぼありえない(当時の主流はシングル盤だし英国輸入盤LPは通常ルートで国内に流通しておらずアイテムとしての意味が現代とは全然違う)のに、それを無視して書き手の都合のためにもっともらしいことを書いてはダメで(その時代・景色・人を含む世界への思慮を欠いて自分の書きたいことを優先させる傲慢さと浅墓さ)、どのように書くかをもっと考えなければいけない。精神疾患の下りにしても、当時は「遺伝的疾患」「大学病院の精神科」といった言葉で客観的にさらっと説明できるような、そんな認識が許容されている時代ではなかったはずで、少なくとも当時それは「キチガイ」と称されるような、より深刻で厄介な、差別や偏見や誤解にもまみれた何かだったはずで、それを聞いた登場人物が如何にもな客観的説明を聞くのは物語の都合でしかなく、少なくとも「だったらその血筋=妹はどうなのか」という発想があらわれないのはおかしい。(その発想があらわれないことに目を瞑って物語を優先するのはキレイごとを強引に押し通すことでしかなく、浅い。)時代も人物も記号ではないし小説を進めるための都合の良いコマでもない。それらは小説を進めてくれるものだが、それらについて考えれば考えるほどそれらが異物にもなり意図した通りに書くのが難しくなるが、それが小説そのものの厚みになる。きちんと手を抜かずに考えること。

千葉雅也「デッドライン」は、これから小説を書こうとする人が抑えるべき幾つかのポイントをほぼ全て踏まえたかのような、模範回答的によくできた小説とも言える。人称や時制の扱い方に従来の小説的規範に対する縛りから自由であることが感じられ、登場人物は少ないよりも多いほうが望ましく、自分の友人をモデルにするとその人を知っているということの厚みが書いた人物にあらわれる良さがあるけど、この小説はまさに多様な登場人物がたくさん出て来て、各人物の呼び名にもぞれぞれ変化があって書き分けが付いていて、しかも一人一人が悪く書かれてない。悪く書くより良く書く方が頭を使う。何度か挿入される大学の先生の面白くて興味深い話も話自体の面白さと同時に先生の存在感の面白味にもなっていて、様々な説明文が何かを説明してるだけでなくて、文自体として面白くて、異なる情報がぎゅっと凝縮されていて、そういうことがすべてキッチリと、どう書けば良いのか考えて書かれている。とても頭の良い人が作った秀作という感じで、どこにも目立つ瑕疵がなくて、むしろその全方位的な完成度の高さが瑕疵と言えるかも。

今書いてる作品に、とにかく自分のすべてを注ぎ込めなければダメ。すでにプロとしてデビューしてるなら話はまた別だが、いまデビュー前で、第一作を作っているなら、そこには書き手のすべてが全部入ってなければダメ。第一作を作ってるときに二作目や三作目を考える余地などありえない。第一作で何もかも投げ込んだ先にしか、次作はありえない。(自分の全リソースの一部から適切に切り取って公開していくのは芸術ではない。芸術は一回一回で全てを出すしかない。)

(今回に限らずいつもそうだが、小説的思考塾は聞いてるとなぜか怒られたような気になり、やや落ち込んで帰路につくことになる。)