女は女である

Amazon Prime Videoでジャン=リュック・ゴダールの「女は女である」を観る。アンナ・カリーナをカメラで撮り、思いつくことすべてを試したというか、すべてのアイデアを注ぎ込んだ、しかし出来上がったイメージはただひたすら、アンナ・カリーナだけ、そこに尽きていた…。

いついかなる時代においても、若くて美しい女性とは、この世の中のさまざまな美しさのなかでも、もっとも価値ある存在=美そのものであるとされる。それはつまり、本作のアンナ・カリーナのような美しさのことを指して、そう云われていることと思われる。アンナ・カリーナは本作で何度となくこちらを一瞥する。つまり一瞬、カメラ目線になる。しかしそのことでアンナ・カリーナがこちらを認識したようには思われない。かえってこちら側と向こう側との隔たりが強調されるかのようだ。そして、それで良いと思う。それで映画が成り立っていて、こちらはまだ漫然と、いつまでも向こう側を観ていてかまわない、そのことに安心する。アンナ・カリーナの表情、視線の先、ジャン=クロード・ブリアリのうつむいた顔、タバコを咥えたジャン=ポール・ベルモンドの口元、何もかも向こう側の出来事で、それらはけして手の届かない別の世界で、向こう側の人々は、たまたまこちらを一瞥することがあったとしても、けして観ている自分を認識しない。自分はけして彼らの仲間にはなれない。それゆえにあまりにも眩くて、アンナ・カリーナが速射砲のように可愛さを振りまいていて、ああ、この世で若くて美しい女性がもっとも尊重される理由はここにあるのかと、今更のように思う。

それにしても1961年なのか。当時のゴダール、自分の仕事と進むべき方向を、ほぼ確信していたのではないか。人の評価などよりもっと手前で、とくに根拠のない自分の内側の手ごたえに対して、ほぼ疑いようがなかったのではないか。そしてゴダールの場合はデビューとほぼ同時に、評価も直ちについてきた。

同じ頃ニューヨークではのちにポップ・アーティストと呼ばれる若者たちが、カフェだかバーだかスタジオだかにたむろしていた。当時から「現代美術」を取り巻く連中はたくさんいた。しかし一部の人々は、ウォーホルやジョーンズやラウシェンバーグやステラの作品を見て、笑ったり肩をすくめてみせたりした。

「信じられないような新しいアートを見て笑うような人がなぜわざわざアートにかかわるのか、ぼくはしばしばふしぎに思っていた。だけどアート・シーンでも、こういうタイプにはしょっちゅう出くわしていたのだった。」

…なんだって彼らは、ここにいるんだろう!?ウォーホルはおそらくまるで他意なく素朴に、心から不思議がっていた。