ステイブル・ギャラリー

エリナー・ウォードに、ついにぼくのニューヨークでの初個展を彼女のステイブル・ギャラリーでひらかせたのはディだった。この画廊は当時マディソン街を入ったところにあったが、そのまえはセントラル・パーク南のすぐそばの、ニューヨークでもいちばん美しい一画---七番街五八丁目---を占めていた。それはもとは金持ち連中がじっさい馬を飼ってたステイブル[厩舎]だったので、春に空気が湿ってくるとまだ馬の小便くさかった。あのにおいは消そうにも消せないのだ。馬が歩くのに使われていたランプ[傾斜]が階段がわりになっていた。ほんものの厩舎スペイスを使ってそれをステイブル・ギャラリーと呼ぶのは、五〇年代にはすごくモダンな発想だった。五〇年代というのは一般的に気取りの時代だった。改造したり改装したりするのがふつうだった。たとえば高校の体育館でダンス・パーティーをやるとなると、体育館とは見えないように「お化粧直し」がおこなわれていた。だけど六〇年代になるとそこにあるものをとりこんでいく。「あるがまま」でよかったのだった。
 たとえばぼくらは六七年に「ジムネイアム」というディスコテークの開店を手伝ったのだが、そういう名前にしたのはそこがじっさいにジムだったからなのだ。それで運動器具---マットやバーベル---をみんなダンス・フロアにそのまま置きざりにした(そして六八年に誰かが「チャーチ」というディスコテークをウェストサイドでひらいたときにも、彼らは教会の設備をいっさいとりはらおうとはしなかった。懺悔用のブースさえ残していた---そこに公衆電話を入れただけ)。そこにあるものをあるように使うというのは、ずいぶんとポップでずいぶんと六〇年代的なのだった。
 ともかくディが六二年のある夜、ぼくのステュディオでエリナーと会う約束をとりつけてくれた。ちょっとお酒も入って一時間ばかり座りこんで話してたら、ディがぶっきらぼうに言った。「まあ、要するに、アンディの個展をやってくれるかどうかなんだよ。彼はすごくいいアーティストで、当然、個展をひらくべきだからね。」彼女は財布をとりだし札入れをのぞいた。それから二ドル紙幣をかざしていった。「アンディ、あたしにこれを描いてくれるんだったら個展やってあげるわ」
 エリナーが帰ってから、ディは、ラウシェンバーグサイ・トゥオンブリーの扱われかたの例があるから気をつけたほうがいい、といった。つまり彼女が、イサム・ノグチのような大物にかけるほどの配慮を彼らに対しては見せようとしないというのだった。彼女がラウシェンバーグの個展をやっていたとき、彼は事実上、画廊の雑役夫だった---彼女は彼に掃除をさせていたのだ!
 僕はついにニューヨークで個展がひらけることになって有頂天だった。エリナーは断然美しくて貴族的な女性だった。容易にモデルにでも映画スターにでもなれたはずだった。---ジョーン・クロフォードに似ていた---が、すごくアートが好きでそれを生きがいにしていた。自分の画廊とかかわりのあるアーティストはみんな自分の子供だと思っていた。そしてぼくのことを、あたしのアンディ・キャンディ、と呼ぶのだった。
 ぼくははじめてのニューヨーク展---六二年の秋---に、大きなキャンベル・スープ缶、百個のコーク瓶、数字を書きこんだ「ドゥ・イット・ユアセルフ」もの、赤のエルヴィス、顔ひとつだけのマリリン、大きな金色のマリリンなどを出した。

(「ポッピズム」37~38頁)