日本蒙昧前史

磯崎憲一郎「日本蒙昧前史」最終回を読んだ。たぶん自分のどこかに、自分でも気づいてない嫌なネガティブな痣のような滲みがいつの間にか出来ていたのを、小説がその汚点を正確に突いてくる感じで、読み進むと次第に不思議な前向きさが心身に溢れてくるかのように感じた。

世の中悪くなる一方だし、若い人たちも皆、不安をかかえてるし、べつに長生きしたいとも思わない、苦労するのも嫌だし、この先悲しい思いもしたくない。ジリ貧に追い込まれて、世間の世知辛さや、他人を見下す傲岸な態度に耐える気力もない。金を貯めこんでるやつだけが生き残れる世の中の端っこに最後までしがみつきたいとも思わない。むしろ、とっととオサラバした方がいい、好きにしろ、勝手にしてくれ、自分は先に行くよ、ではサヨナラ…などと思っているうちは、まるで甘い、浅はかで愚劣で不遜。そういう雑な考え方こそが罪悪なのだと。

我ながら、馬鹿な感想だとは思うが、それこそ明日以降を怯まずにベタに生きてやるという気概をもらうというか、面倒事や不安や苦悩や悲しみを背負ったとしても、それはそれとして、死の前日までは毅然と生きてやろうというやる気が漲ってくる。この先、ますますロクでもないことばかりだったとしても、悲しみと苦痛しか与えられなかったとしても、与えらえた条件下で、その感覚の只中をしっかりと感じ取ってやろうじゃないかという気が漲ってくる。

適当にタカを括って斜に構える怠惰さ、そんな身勝手な思い込みによる自己判断、「救い難く深い自己陶酔、その不遜さ」を、この小説は厳しく批判する。「小説の行く先は、作家ではなく小説が決めるのだ」という言葉は、人間一人の判断に如何ほどの力もない、それを認識し、謙虚に、つまり厳密に、耳を澄ませて、本当の進むべき道を示す声を聴けよ、という言葉でもあるだろう。それは国家とか教育とか戦陣訓とか世間の評判とか、それらの示す先ではなく、もっと別の彼方からの声であるはずだと。そんな声が、いったいどこから聴こえてくるのか、内実が無いではないか、言うは易しではないか、それこそキレイごとではないか、いや、けしてそうではないと、その声の感触そのものを描こうとする、この小説はその挑戦であろう。

ただ無心に生きる、そのためだけにあらゆる力を注ぎこむということ、これまでの知恵と経験を注ぎ込んで、今日と同じ明日を迎え、生きながらえるということ、それは真の意味で、創造的なことだ。

来たる苦痛や悲しみを恐れるべきではない。想像上の未来のそれは、自分の怯えに冒されている矮小なイメージに過ぎないからだ。それら痛みや悲しみは、現実にそれを受け止めたときの私にとって、苦痛であると同時に、取り替えのきかない、自分にとって掛け替えのない何かでもあるのかもしれないのだ。そのような無根拠な楽天性こそが、希望なのだ。歴史上の夥しい悲劇を生き抜いた人々を支えたのも、おそらくそんな希望であったはずだ。とにかく絶望しないこと、嫌なものから目を背けて誤魔化さないこと、げらげらと笑いながらそこへ向かって進むことだ。そして、やるべき仕事を続けるということ。

完全に舞い上がってる系の、高揚した文章になっておりまして、すいません。