書かれた文字、文章というものの怖いところは、何かの意味を伝達させようとして、何かを書いて、意図通りに意味が伝わったか否かの合否判定が出来るような伝達手段ではないところだ。いや、もちろん伝わったのかダメだったのかは度合も含めて判定できるだろうが、文章というのは伝達内容以外の雑多な何かを避けがたく含んでしまう。それはおそらく書き手の、個性とか個別性とか癖とか呼んでも良いのだと思うが、なにしろ不純物のない純粋な意味の入れ物としての文章というのは存在しない。僕はそれがおそろしい。自分の個別性や癖が外部に流れ出してしまうことがおそろしいし、浅はかな狙いや思惑や計算の裏側が見えてしまうこともおそろしいし、つまりもっとも隠しておきたい、自分のいちばん根底にある欲望が、他人に全部見えてしまうことがおそろしい。

若い頃に絵画を学んで痛感したのは、世の中には信じがたく絵の上手い人がいるんだな!ということだった。しかしこれも主観的な判断で、そもそも何をもって絵を上手いと判定するのか、客観的な価値基準が存在するのか?僕もその後、かなり長い時間を経てからようやくわかったこととして、つまり僕という個別的人間が「上手い」と感じてしまうようなある種の傾向をもった絵があるのだと、それだけのことに過ぎないのだということを知った。

もちろんその絵は「上手い」のだが、その手の傾向をもった絵を、誰もが僕と同じように「上手い」とは思わない、それがふつうだ。逆に他人が「上手い」と感じる絵を僕も同じように感じるわけではなくて、これも当然である。ただし長い歴史の中でゆっくりと価値判断されてきた絵の歴史というのはあるのだから、それを最大限尊重することは大事だ。客観的な価値基準が存在するとすれば、それは過去の歴史にしかないだろう。逆に言うと、歴史に洗い出されたわけでもなく、歴史との緊張関係を意識に含んでいるわけでもない、まるで大したことないはずの絵に何事かを感じてしまうとしたら、それは美的判断ではなくて、おそろしさを回避したいという欲求からくる「症状」であり、分析対象であると考えた方が良い。

当時の僕が「上手い」と感じていた、あるいは今もそう感じているのかもしれない絵、あるいは文章。それはどういう傾向なものか?というと、つまり不純物が無いように見える、不純物を上手く制御しているように見える、要するに個性とか個別性とか癖とかの要素がなるべく少ない、おそろしさの含有量がきわめて小さいものを「上手い」と感じてしまうということになる。

いわば「うその上手さ」に反応する。文章を読んで、絵をみて「なんて上手なうそだろう!」と驚嘆している。絵だとアカデミックな基礎技術がしっかりしている類にかなり弱いし、文章だと三島由紀夫とかもモロにそういうタイプだと思うが…。ちなみに僕は三島の代表作はかなり昔にほぼ読んでいるのだが、正直、三島由紀夫って「まあ…なんて華麗な文章なの…」と僕はふつうにうっとりしてしまうところがあったのだが(しばらく読んでないから今どう思うかはわからないけど)。何かそういう…平凡な意味での高度な技術というか、カッコいい風に抑制の効いた、まるで盆栽の枝ぶりを師匠の教え通りにきちんと決めたかのような、もっともらしい感じを、なんとなく頼もしいというか不安を解消してくれる何かのように感じてしまうのだと思う。それは僕の臆病さがもたらす症状で、たぶん僕が本当の「美」を感じ取ろうとしたときの夾雑物になっているのだろうと思う。

いや、まあ、しかし「うそ」もべつに、悪くはないのだ。それはそれだ。

なお僕という人間にとって最大の不幸は(つまりそれは最大の幸福の裏側なのだろうけど)、僕には僕が「上手い」と感じてしまうような絵も文章も、自力で作り出せる能力がなかったということにあった。つまりはじめから自慰を禁止されていたということ。だからそれは良かった。結果的に何もつくりだせないとしても。たぶん大学入学直後で薄々気付いたのだが、ほんとうに自分の腑に落ちたのはもっとずっと最近のことだと思う。このことの発見は貴重であった、と現在、一応は、そう考えているが、もっと早く気づきたかったという後悔の気持ちもある。