精神、演劇1

Amazon Prime Videoで想田和弘「精神」(2008年)を観る。雨降りの湿った景色ばかりがやけにたくさん出てくる。診療所の建物はずいぶん古い、いかにも昭和な雰囲気の木造の建物で、そういえばはるか昔、僕が子供の頃に一時期通っていた歯医者もたしか、こんな風に木造の、待合室に座ってるだけでなぜか日陰者のような、後ろ暗さを隠しているかのような、そんな気分にさせられる独特の薄暗い雰囲気をたたえた建物だったと、古い記憶がよみがえる。

建物もさることながら、職員や先生の職務に対する姿勢というかホスピタリティというか、弱者の味方で、採算度外視で、今風の情報開示主義とかエビデンス主義とかではない、おそらくもはや絶滅寸前に近いような、患者に対して献身的に寄り添うことが前提の、場合によっては公私の境界線もなし崩しになってしまうような、まさに地域に根付いた、町のお医者さん的な、良くも悪くも昔堅気な診療所という感じだ。

委員のスタッフや、ヘルパーさんや、事務の人たち、午前中の診療開始から、次から次へと診療室を訪れる患者の皆さん。待合室なのかロビーなのかよくわからない部屋で、患者たちがソファーや畳の上にぐったりと休んで時間をやり過ごしている様子。医院に併設されているのか別施設なのかわからないけど、医院よりはよほど近代的な宿泊部屋。障害者自立支援法の廃止によって容赦なくカットされる補助金、薬品。お金の切り詰め方、日々の楽しみ方、これからのこと…。

20代のときに発症して、以後40年近く通院治療を続けてきた患者の男性は、健常者である向こう側とこちら側について、向こう側がこちらに偏見をもつことはあったとしても、こちら側の自分は自分に対して偏見をもたずにいきたいと言う。これまでの経験をとおして、こちら側の我々は治療が必要だが、健常とされる向こう側の人間に、本当の意味での健常者がいない、本質的健常は存在しないということを、こちらは既にわかっていると。誰もがかならず大なり小なり、欠陥をもっていて、それがクローズアップされればこちら側だし、そうでなければあちら側というだけの違いであると、そのことを知って自分は今後もやっていくと、おそろしいほど「正確」な話をするのだった。まさにそのとおりなのだと思う。

人と人が喋っているのを、ひたすら見て聴いている。その人であると同時に、その時と場所であるということ。けして楽しい話ばかりではなく、慄然とさせられる話もあれば、とりとめない話もあれば、何がどうというわけでもない話もある。最後に出てきた、ずっと電話してる爺さん、あのとりつくしまの無さ、あの届かなさが、この映画の最後というところがいい。

続いてAmazon Prime Videoで想田和弘「演劇1」(2012年)を観る。平田オリザ率いる青年団の活動を追ったドキュメンタリー2作品の前半。駒場にあるらしい練習スタジオ兼事務所の、けして広くはないだろう間取りのビル内に稽古場や事務所や書類や衣装や道具類やら役者やらスタッフやら事務員やらがひしめき合っていて、稽古する人、柔軟する人、お金の計算する人、事務連絡する人、飯食う人、寝る人などが、上下左右にぎっしりと詰まった、ほとんど謎のアジア都市の過密ビル内を見ているかのようだが、各進行はとても整然と、正しくプロセスを経て進んでいく感じで、どこにでもある普通の中小企業の業務実態を見ているようでもある。社長である平田オリザ自身の醸し出す空気であり、その作品をかたちにするための組織が自然にまとう空気なのだろうと思う。

平田オリザの仕事を僕はこれまでまったく知らなかったのだが、舞台上で複数の人物グループたちがそれぞれ別の対話をし続けるとか、なるほどこれはたしかに、演劇空間においてはこれまでだったら考えられないような出来事なのだろうとはわかる。稽古は台詞の言い方、間の明け方、語尾の伸ばし方など、きわめて細かく指示が出て、納得いくまで同じシーンをひたすら繰り返す。妹が姉に突っかかって、でも口ごもって、気まずい沈黙が流れて、それにもう一人が合いの手を入れて、その勢いでまた軽く言い合いになる…みたいな一連のシークエンスを、ひたすら十回くらい連続して見ることになったりする。しかし俳優とは、すごい技能であるなあ…と思う。これほどまでに同じこと(同じ言い方、同じ表情、同じ態度で、指摘されたところだけはちょっと変える)を、人は繰り返せるものだろうかと。ほとんど自動機械のように、ふつうに息をするかのように演技をしている。もしかして、演技しているという意識がないのではないか。

しかも本番の劇場で舞台設営まで施工業者と同じように役者は全部やるし撤収・荷造りも同様だ。まさに大昔の旅芸人の一座と、現代の劇団と、実態は何も変わらないのだ。じっさい劇団やるとかバンドやるとか、それを継続させるというのは、じつに驚くべき力量と才能と体力と気持ちを必要とする、とてつもない大事業だとあらためて思う。じっさいにそれが継続されていることの迫力にあふれている。