本源的蓄積

もし僕が中世ロシアの農奴の家に生まれて、そして死んだとしたら、その人生は幸せだっただろうか。(むしろ、じつは僕は本質的には農奴では?)

土地と人間の労働力が、商品として扱えるようになり、世の中は変動する。金は人を、いやがおうにも自由にする。金が自由を強制する。金こそが、私の出自、出身地、家、親族、あるいは国籍、人種、性別から、私を開放する。そして私はそこに、一介の労働力である私を見いだす。労働力という商品である私は私を売る。私には私の労働力を売る自由ならびに労働する自由がある。今までもこれからも、ずっと自由で、この自由から逃げることはできない。

ロシアの農奴は生まれ育った地を追われて、混沌とした社会へ彷徨い歩み出す。「桜の園」のラネーフスカヤは新しい時代に付いていけず、先祖代々の土地をついに売り渡すことになる。買ったのはもともと自分らの農奴だった商人ロパーヒンだ。ロパーヒンは、ロシア革命の後、どうなったのだろうか…。

子供の頃に私たちの村にやってきて、馬上からこちらを見下ろしていた領主様の優しそうな眼差しを思い出す。