黄金列車

佐藤亜紀「黄金列車」を読み始めてしまった。1944年、ハンガリー帝国の官僚バログはナチスハンガリーに貯蔵する物資を列車でベルリンまで運ぶ役割を請け負う。この時代のこの舞台設定、もはや超の付く娯楽作というよりほかない感じで、やたらと面白くて、時間のあるたびにひたすら読み耽ってしまう。「スイングしなけりゃ…」もそうだったが、まず確固たる映画的なイメージ、想像だけでほぼ細部まできっちりと出来上がっている映画が脳内にあって、それを土台にして文字に起こしたものがこれらの小説作品ではないのかという感じがする。しかしもしかするとそれは逆かもしれなくて、こういう小説作品が昔からたくさん書かれたことで、スパイやミステリーや鉄道やナチス憲兵や警察なんかの出てくる映画作品の土台も出来たのかもしれない。二十世紀の歴史は概ね陰鬱で悲惨だけど、二十世紀の歴史を題材にしたフィクションにも二十世紀自体に匹敵するくらいの歴史が(フィクションの歴史として)積み重なってしまったということだろうか。そしてそれは少なくとも今を生きている我々にとって、あまりにも美味しく味わい深い滋味をもつ何かだ。

主人公バログとそれを取り巻く人々がいて、バログの過去が回想され奥さんがいて友人夫婦がいる。現在と回想にまったく継ぎ目がない書き方がなされているのだが、奥さんが出てくればそれは回想だとわかるのでぜんぜん混乱しない。現在系の進行も、何の前触れもなく場面が変わったことが、登場人物名の唐突なカットインであらわされたり、こういうところもすごく映画っぽい感じがする。


…通勤電車が目的地に着いたので、本を閉じて鞄にしまって、改札を出て歩き出す。前後に人がいて、僕の前には若い女性が歩いている。若い女性らしい服装と髪型だからそう思うのだが、後ろ姿だけで顔を見たわけではない。鞄を持つ手を見ると、ぎゅっと力を込めた指と手の甲が薄い皮膚の上に、はっきりとわかる太い血管が浮き出ていて、その手は若い女性にみえないが、それでもこの人はおそらく若い。そしてさっきまで読んでいた小説の雰囲気に近い何かを、その鞄をしっかりと持つ手から、かすかに感じ取っている。