ワインディング・ノート

今週はじめから乗代雄介「ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ」を読んでいる。650ページもある分厚い本。まずは後半に収録の"ワインディング・ノート"から読む。僕がこの文章をはじめてブログで読んだのは2018年の冬だが、そのときも感じたけどこの文章は一度読み始めたら、そのまま最後まで読まずにはいられないような強い磁力がある文章で、こういう「背水の陣」みたいな強烈な心持ちでものを書くというのは、もともと非常に高度な技術力や才覚をもった人間だとしても、いやむしろそうだからこそ、その営みの過程において、ある特定の一時期にしかできないことなのかもしれず、それを書くことでそれ以前の段階にはもう戻らないという、そんな決意と覚悟をもたなければ、書けないものだろうなと思う。"ワインディング・ノート"は、乗代雄介の諸作品すべてに通底するテーマが明確に描かれていると思うし、これを読むことでこの作家が何を模索しているのかの導きになると思う。

「モノを書く」というのは、基本、カッコいいことだ。それはかつてであっても、2020年の現在においても、やはりそうではないか。カッコいいというのはつまり、誰の助けも借りず、誰の指図を受けることもなく、たった一人で、自分の力だけで、自分のやりたいように、自分の目指すべきことに向かう、みたいなことだ。「モノを書く」ことのカッコよさとは、だから既成の制度から外れた一匹狼のカッコよさに似た何かだろう。一匹狼はなぜ一匹で生きることが可能なのかと言ったら、それはそれだけの能力があるからだけど、能力があるだけでは一匹狼たりえない。

乗代雄介的な作家の矜持、そこには息苦しくなるほどの祈りにも似た決意があって、ずばぬけた能力を根底で支えているのは、命と引き換えにしてもかまわないくらいに思い詰められた倫理性である。一匹狼の「ワル」としてモノを書き続けるにあたって必要なのは、まずなによりも書く/読むことに対する倫理である。"ワインディング・ノート"に充溢しているのはそういうものだと思う。