真面目

僕がまだ小学生のとき、親や教師は常に「真面目」に「やるべきこと」や「考えるべきこと」を押し付けてくる存在だったので、その手の大人たちが時折見せる、いつもと違う振る舞いや態度というものに出会ったとき、それは常に新鮮に感じられた。今でも記憶に残っているのだが、小学三年生のときに近所のスイミングスクールに通っていて、そのスクールの講師たちも子供に水泳を教えることにかけてはやけに真面目でひたむきだったので、子供である自分にとっては鬱陶しくも怖くて厄介な存在だった。ところがある日、スクール内でチーム対抗試合が一日がかりで開催され、最後は優勝チームと上位成績者の表彰が行われ、それも終わっていよいよ閉会の間際、ふだんは冗談や軽口の要素など微塵も感じさせない、と少なくとも僕は認識していたある講師が、プールサイドのマイクに向かって、ややふざけた調子で「若い力と感激に~燃えよ若人~胸を張れ~」と歌い始め、それを聞いた他講師たちが、やめろよふざけるなよと笑って止め、本人もげらげら笑いながらマイクを戻すという一幕があった。何のことはない従業員同士の軽いふざけ合いに過ぎない話だけど、それを見た当時の自分にとっては衝撃的な瞬間だった。なんだよ!皆が、最初からそうだったのか?実は以前から、これらのことを「真面目」にやってたわけじゃなかったのか?あえて「真面目」にやってるだけで、ほんとうはこれらが、そうやってふざけて笑い合う程度のことに過ぎないのは、皆が承知の上なのかと。…それらすべては「仕事」で、「安全な育成」のためで、何よりも「金」と「生活」のためで、親も教師も最初からそれをわかっている、だからこそ、あのような「冗談」が成立する余地もうまれる。それは、神聖にして侵すべからず、な領域ではなかったのか。もちろんそれが、目のまえのスイミングスクールの対抗試合にとどまらない、僕たちを取り囲みあらかじめ準備されている、ありとあらゆる行事や会合や社会的組織的行動のすべてにあてはまるものと、そのとき一瞬にして理解された気がした。皆が示し合わせて、真面目な態度で歩調を合わせているに過ぎない、その事実を、僕が生まれてはじめて垣間見て実感した瞬間であった気がする。

その後、中学生になって、当時通っていた学習塾の講師たちのふりまいていた雰囲気の印象にも忘れ難いものがあった。ちなみに、中学生の自分にとってクラスや学年を担当する中学校教師たちというのは、多かれ少なかれ、良くも悪くも「終わってる」感じがしたものだ。とくに男性教師は壊滅的だった。いや、なかにはちょっと面白い感じのする人もいなくはなかった、かもしれないし、女性教師にもまだその場と空気に染まり切ってない、少し暗い目と表情の裏側に、現状を決して肯定してはいなくてもっと全然別の世界を思い浮かべているかのような、ひそかな意志めいたものを感じさせるような人も、いなくはなかったけれども、ほとんど総じて壊滅的に地味で覇気がないか、または怒声一発で恫喝的にすべてを従わせようとする憲兵みたいな性根の持ち主か、おおむねその二パターンだった気がする。子供の眼から見ても、人間ああなっては終わりだと実感させるに充分だった。それと較べると小さな学習塾の講師たちは、少なくとも人生をどうにかやりくりしている大人の態度として、よほど子供に共感される要素の多い人々だったように思う。彼らは良くも悪くも公私混同があって、それを当然と思うだけののっぴきならなさとアイロニーの両方をたたえていて、決められた要領に沿って学習を進めつつ、ときには授業中にそれとは無関係に余計なことをだらだらと喋るわけだ。中学生にとって大人の雑談は、ことにある種の距離感をもって放たれる言葉には独特なリアリティを嗅ぎ取ることができてそれが面白いものだし、たとえば古典や漢文の授業であれば、まだまだ短歌や俳句をたしなむ老人はこの世にたくさん生き残っているのだから、君たちも現状これらの素養を多少齧る必要があるのは避けられないのだと、そんなニヒリスティックなものの言い方も、少なくとも中学生にはリアルに響くのだ。かつそのような斜に構えた態度であっても、そこで知ることになる新しい規範、新しい形式は、けしてネガティブで古臭いものとしてだけ取り入れられるわけではなく、それを面白くい何かとして取り入れるのかどうかはその人次第で、そこに時間や世代は大して関係ないのだと…そこまで語られるわけではないにしても教える側の言葉にそのニュアンスまで含んでいうことが感じられるというかこちらで勝手に補ってしまうというか、いずれにせよそこで教えられる物事が、今思えばこれみよがしなペシミスティックとかアイロニーとか凡庸なシラケのムードに乗せて語られたのだとしても、それが「仕方なくその役割をやってる」講師と「仕方なく塾に通ってる」生徒のあいだでやり取りされるかぎりにおいては、少なくとも物事を知る場としてそれなりにフラットでフェアなやり取りの交わし合いが行われたことにまつわる面白さだったように思う。

とはいえ、子供時代の何が辛いのかと言えば、そこで色々と上手く行かなければ、この世は地獄そのものだし、多少上手くやったとしても、それは限られた有限の世界であると実は誰もがわかっていて、そのくせここは避けがたく「真面目」に「やるべきこと」や「考えるべきこと」を適宜処理するだけの世界だから、上手くやることも「相対的に上手い芝居をこなている」以上の価値がないと自他ともにわかっているような、何百回も同じネタをくりかえしてる小芝居かコントみたいなことでしかない、ということだろう。しかしその外側にはもうちょっとマシな世界が広がっているはずだと信じられたのだとしたら、それはある意味幸福かもしれないし、信じられた分だけ今が辛いから、より不幸かもしれない。自らを鈍麻させて、幸福も不幸も中和させてしまえばいちばんラクで、僕などもそれに近かったと思うが、その代償というか副作用もあったかもしれない。その代償はそれこそ、ことによるとある意味一生を左右するようなものかもしれない。