ゴダール映画史

アテネ・フランセ文化センターで「ジャン=リュック・ゴダール 映画史 全8章」を観た。初見。ついに観ました。これでとりあえず、しばらくもう観なくてもいい…。嬉しい。観て良かった。どれだけ過酷で長時間であろうが、観れば、いつかは観終わってしまうものだなあ…と思った。客席は一席ずつ間隔を空けてあったので、最大収容人数の半分だったかと思われるが、そのことは結果的に良かった。助かった。両脇に人がいないというのは、長時間の上映時間を過ごすにあたってはじつに快適であった。もしいつものように超満員だったら、けっこう身体負荷がきつかっただろうなと想像される。

冒頭、書斎でタイプライターを打ち込むゴダール本人の姿が映し出されている。連続するタイプ音が、かなりの音量で、まさに打刻音としか言いようのない力強さで、何度も繰り返される。スクラッチされる映写フィルムと音、ゴダールって、ほんとうにDJっぽいなあ…と思う。記録媒体が操作されて、映像も音も二回目以降の加変体としてあらわれる。再生スピードは緩み、音のピッチは下がり、また上がる。音と文字と映像(静止画/動画)のひとつながりになったもの、それらは混ぜ合わさることなく観る者に届く。それがどのような結果でも、観る者は事後的にそれらをイメージに変換して、ある時系列の経験(記憶)として捉えている。それがどれだけでたらめなつながりと音と言葉の連続であろうが、何かしらの時系列経験は成立する。

ゴダール独自の文法というか、ゴダールの身振りというか、喋り方というか、ゴダールの作品を観たときに、それは確実にある。そういうゴダール的な呼吸間隔に、ひたすら身をあずける。あずけるうちに、観ているそれを、いつまでも観ていられるようなものとして身体が受け入れはじめる。独特の変節のあらわれかた、ショックのあらわれかた、みつめることが許される瞬間、耐えなければいけない瞬間、などが意味以前のところで理解されはじめる。

1A、1Bでは相当目まぐるしいか、あるいは過激に再生スピードをいじくってるような印象だったものが、2A以降は少しずつおだやかになっていくように感じた。とはいえ定期的といって良いほど挿入される戦時下の記録映像やポルノ映像など和やかな思いで観ることが難しい瞬間も多々ある。けっこう近年のたとえば「イメージの本」とかに近い感触だと思った。しかし本を朗読するジェリー・デルビーの何とうつくしい場面だったろうか(「エル・スール」の主人公の子が父親とレストランで話をするシーンの光を思い出した。というか一瞬そのシーンそのものに見えた)。また黒衣装のサビーヌ・アゼマの喫煙しつつかすかな笑みをたたえた表情の何とすばらしかったことか。ゴダール自身もじつにたびたび登場するけど、まあ今更ではあるがゴダールという人はカッコいいし、おそらくそのことに自覚的だし、そして何しろ、とんでもなく凄まじい自己顕示欲であるなあと、つくづく思った。あと「イメージの本」っぽいとさっきも書いたけど、とにかくどんなときにでも心の奥底に「怒り」がふつふつと燃えていて、言いたいことはいくらでもあって、これでもかとばかりにやり切らなければ、到底気が済まないという激しい欲動を、強烈に感じる、というか作品がある意味それそのものなのだ。

19世紀、とりわけマネが何度も称揚され、映画もマネから始まったのだくらいのことが言われる。リュミエール兄弟によって生まれた映画は、しかし二つの大戦によってある種の終局を迎えるが、ヒッチコックやカサヴェテスやイタリア映画たちが、かろうじて今でも映画を支えていて、そしてこの私も…という感じで、それはまさに、闘争の歴史を語る口調に近い。もし人間の歴史が、ひたすら絶えざる階級闘争の歴史だったとしたら、芸術をつくる試みもその抵抗運動と捉えることは可能ではあるだろう。芸術作品に「怒り」が含まれている、あるいは芸術作品には必ず「現状をエンハンスする意志」が込められているのだとしたら、それは芸術作品がそのまま抵抗運動の形式だからであろう。そもそも芸術作品が作品として形を為す必然性こそが、そのモチベーションに基づいていると考えることもできるだろう。たとえば封建時代の農奴が、うつくしい作品を作って領主にささげたとするなら、農奴と領主との関係を農奴が近代以降の感覚でとらえられなければ、その作品が同じようなものとして存在するのは難しいだろう。

このような義侠心、責任、歴史への信頼、起源への忠誠、みたいな事によって何かを支える、その倫理をベースに磨かれた「技」を提示する形式、本作ではことに、その形式性があらわになっているという印象を受けた。同時にそれは、4時間半の時間を使って、とてつもなくすごい天賦の才をもったアスリートの技芸を見ているかのような体験でもある。現状を憂い、怒れる「この人」こそが、すごいのだと。しかし同時に、作品にあらわれるのは「この人」だけではない。アスリートの身体の運動が「この人」とは無関係に、非属人的な何かとしてあらわれるようにだ。

それと、とにかくゴダールは圧倒的に耳が良いのだなというのが、このたびよくわかった。音楽の使い方、扱い方が、突出してすごい。それがまだ80年代であることがさらに驚異的である。交響楽だろうがポップソングだろうがソウルだろうが、全部バラバラの断片として感受している。聴く単位として異常に細かくて、音自体の相違に異様に敏感、今のテクノ系の人がおそろしく細かくツマミをいじくって音の厚みを構成するのとほぼ同等の精度(しかもテクノロジー無し)ではないだろうか。

今なら当たり前の耳が、そういう「聴き方」が、本作にはすでにある。曲の出だし、歌い手の声が発される瞬間、そういった瞬間を、信じられないくらい繊細な手つきでカットして別の個所へ貼り付けている。サウンドコラージュとしての繊細さがとんでもない。音楽という形式がもっとも「香る」瞬間と、もっとも「力を抜く」瞬間を、的確にとらえている。音楽が連続性によって自動運転し始める直前でブツっと切るか、もしくは別のできごとへ繋げてしまう。惚れ惚れするような瞬間が何度もあった。冒頭のタイプライターの音も、葉巻に火を付けるときのライターの擦過音ひとつ取っても、すべてにおいてそうだ。