アメリカ紀行

夏がきた。買い物したらなるべく早めに帰らないと、ちょっと鮮魚類が心配になる。

気の早いセミはもう力尽きて、マンション階段の踊り場にひっくり返ったまま絶命している。セミを見てると、なぜか太平洋戦争の海戦で次々と撃ち落されていく戦闘機の映像を思い出す。セミというものを昆虫ではなく機械のようなものだと、どこかで思っている。墜落の衝撃で身体の一部が欠けた状態で死んでいるのも機械っぽい。大量の物量投入されて、次々と落ちていくようで、儚くて哀れだ。

千葉雅也「アメリカ紀行」を読みはじめたら、かなり面白い。「デッドライン」に先行する小説作品だと見なすこともできるのではないか。もちろんこの書物は小説ではないのだが、気付くと小説として読んでしまっている。登場人物(と、あえて言うが)を、こう動かしたいといった事前の思慮が無くて、記憶を新鮮なまま保管してそれを正確・実直に(抑制を効かせつつ)記述している感じ、一つ一つのエピソードはどれも面白いのに、それらが意図なく関連なく、ぶっきらぼうにばらばらに放置されている感じ、それでかえって世界全体がしっかりと立ち上がっていて、そんな書き方だってもちろん技術の一つには違いないだろうけど、やろうと思ってやれる類の技術ではないよな…とも思う。

ことに、ニューヨークに行ってからがことのほか良い感じ。電車でペン・ステーションに着いた直後が以下

黄色っぽく薄暗い駅の地下空間をうろうろして、階段を見つけて外に出ると、冷たい空気が顔にぶつかってきて、視界は一瞬で拭き取られたように透明になり、ただいつも通りにそこにある繁華街に僕は立っていた。看板やスクリーンの光りがピカピカし、色とりどりの防寒着の人がごったがえしている。新宿や渋谷がただいつも通りにそうであるのとまったく同じだった。

とあり、それは確かに新宿や渋谷とまったく同じなのだろうとわかるけど、同時にそれはニューヨークにほかならないという強い実感もあわせて伝わってくる。これぞその場であると…。

すごくシンプルで、あまりにも簡単すぎないかと怪訝に思うほど簡易的で、しかししっかりと書かれたことの作用が伝わってくる。物足りなさのような、あるいは、いくらなんでもありきたりでわかりやすぎないかと危ぶむ懸念のような、そんな余韻の裏側から、それでも必要事項はきちんと網羅されていることが、じわじわとわかってるくるかのような文章だ。

翌朝は、ベーグルの有名店に行くために地下鉄に乗る。子供がAppleのワイヤレスイヤホンをしている。さまざまな民族が寄せ集められている。さまざまな向きでしばらく静止した表情がある。東アジア系の人がそばに座っている。これほどの多様性。それぞれのタスク。この街に、飛行機が突っ込んだのか。