会社

蒸気船ユニオン号について、長州、薩摩、亀山社中三者の間で紛争が生じた。この船は、自前の船を持たない亀山社中が、アクロバチックな手法で社中の船として「リース」していたものだった。長州藩は軍艦を持ちたいのだが、幕府の禁制により購入できない。これを坂本龍馬は、表向き薩摩藩が購入するかたちにして、実際は長州藩が金を出して所有権を持ち、運航は亀山社中が行うということにしたのである。

しかし、長州藩としては、金だけ出して船が使えないのが困る。幕府との海戦は必至とみられていた。このため船の返還を求め、交渉が難航したのを、近藤長次郎が解決に導いたのだった。ただし、長州有利の結末である。平尾道雄氏の『海援隊始末記』によれば、長州藩は償金を長次郎に支払った。長次郎はこの金を私物化、長脇のグラバーに話を通し、かねて念願のイギリス留学を計画して、実現寸前まで進む。長次郎はこの計画を社中に秘密にしていたが、知られてしまう。これまでも長次郎が無断で行動し、手柄を独り占めしてきたことへの反感もあり、慶応二年(一ハ六六)一月、長次郎は切腹せざるをえなくなる、享年二十九。

(中略)

亀山社中海援隊が日本で最初の株式会社である、と述べたのは、経営学者の坂本藤良氏であった。氏は後にこの節を撤回、幕府の兵庫商社こそがそれに当たると別の説を唱えた。両説とも定説とならなかったが、亀山社中海援隊のとらえ方において、最初期の会社であるというイメージを作り出す役割を果たした。司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』では「坂本龍馬」を、亀山社中という「日本最初の株式会社の社長」に擬している。

亀山社中海援隊は、規約「射利」(利益を得る)を明記するなど、当時としては先進的な集団であったことは確かである。しかし、亀山社中海援隊を「会社」とみるのは無理がある。亀山社中海援隊は、種々の性質を持った未分化な集合体だった。彼らにとって射利は目的でもあったが、それ以上に、海軍として、政治結社として活動する資金を得るための手段だった。会社が会社であるためには、社会正義といったものと切り離して利益を追求しなくてはならない。会社は利益を上げなければ倒産する=会社でなくなるからだ。亀山社中薩摩藩海援隊土佐藩の経済的支援なしには成り立たなかった。

正義と利益とは、別の角度から見れば公と私である。近藤長太郎は私の利を図って、亀山社中海援隊内部の義=公を損壊した。これが純粋に利を目指す集団(会社)であるなら、懲戒免職=集団からの不名誉な追放で処分は終わるはずだ。しかし、亀山社中海援隊は、社会的な義=公を体現する集団でもあり、集団の規律を乱すことは、単なる内部規律違反ではすまない。社中には「凡そ事大小となく社中に相談して之を行ふべく若し一己の利の為め此の盟約に背く者あらば割腹して其罪を謝すべし」との盟約があったと言われる(『坂本竜馬関係文書』)。長次郎は、みずからの過ちを命をもって償わなくてはならなかった。ここには、公と私の区別は存在しない。

坂本龍馬が、もし明治維新後も生きていれば、海援隊を貿易会社に発展させて世界に羽ばたいただろう、としばしば語られる。まんざら荒唐無稽とは思えず、なにより美しい空想である。しかし、どうだろうか、存命中の竜馬は多忙に過ぎて考える間もなかっただろうが、もし生きていれば、貿易で成功するには会社組織が必要であり、会社は利益のみを存在基盤とするものだと気づくことになったはずだ。竜馬は、そのようなものに人生を賭けることができただろうか?岩崎彌太郎はそうすることができた。

 

岩崎彌太郎「会社」の創造 井伊直行 119~122頁