電車のドア脇に立って、乗り込んでくる人たちをやり過ごしている。ほとんどの客が車両奥へ向かい、空いてる席に座ったりその前に立ったりして、やがて全員の車両内位置取りが決まって、ドアが閉まり、電車が動き出す。僕のすぐ前に女子高校生が立っていて、うつむいてスマホを熱心に操作している。電車が走りだしてすぐに大きく揺れるので、つり革や手すりに掴まってない立ち客はややよろけながらも姿勢を保つ。女子高生はよろよろと何歩かこちらに近づいてきて、こちらにぶつかりそうになる寸前であやうく止まる。それでもスマホから目を離さないままで、こころもち大股になって姿勢を安定させようとするが、いや、もうちょっと離れてほしい。まだ空きスペースあるし、あと二歩くらい後退してほしいと、ドア脇のコーナーに追い詰められている僕は思う。電車がまた揺れて、何にも掴まってない女子高生がヨロヨロとよろけて、ふたたびこちらにぶつかる寸前くらいまで近づく。いや、だから距離感!距離感おかしいだろ君は…と思う。周囲を見渡して状況判断しなさいよ、お父さんとお母さんに怒られるぞと思う。電車内で、女子高生の距離感が近かった…って、こんなことをブログに書いてるおっさんが、どれだけグロテスクなものか、書かせんなよ…、そう思って、めまいをおぼえる。自分の胸くらいまでの身長しかない、高校生の女子というのは、今の僕にはとても幼く見えて、大げさかもしれないけど小三の姪っ子に近いものを感じる。ただしそのうつむいた頭部の頭髪の感じには、若い女性のそれらしさみたいなものも、たしかにあらわれているとは思う。その、らしさとは何か、子供の柔らかな不定形さと大人の硬質さ、それで言ったら後者の方。カチンと跳ね返すような冷たい存在感。毅然としたものが萌芽してくる気配といったようなものか。それを見やりつつ、けして交わらず平行して立つ別の樹木のごとく、おっさんそして老人としてこれから毅然と立つには、どうすれば良いのか、律する自意識を保ちつづけるには。