アン

NHKで海外ドラマ『アンという名の少女』を観た。2017年カナダ制作の実写版「赤毛のアン」で、全八回のうちの一回目。台詞とかエピソードとか、ほぼアニメ版「赤毛のアン」の印象から外れてない感じだった。

今回あらためて思ったのは、アンという少女は孤児院から来た子で、この少女もまた無数にいたであろう不幸な境遇の子供たちの中から、幸運にも助かって、自身の人生を自身の力で歩むことを許された一人だった、この物語もまた、そういう物語なのだなということだった。当時、孤児院出身の子供は、多くが派遣先家庭内において、おそらくきわめて厳しい条件下で労働を強制される境遇ではあっただろうし、その後も困難の多い人生を耐えて生きていくのが避けられなかっただろうからだ。

集団の中で、たまたま幸運だった、たまたま才能に恵まれていた、たまたま出会った誰かの慈悲にあずかることができた、もちろん本人の努力や苦難へのあらがいの力のおかげでもあっただろうけど、それでも人一人の力では到底どうしようもない幸運の、そういったことの積み重ねが、アンの物語を生み出しただろうし、物語という形式において、たとえば強制収容所からの生還も、戦場からの生還も、同様に可能になった。その下には、おびただしい数の無数無名の存在があった。それらの思い、無念、存在の事実を、きちんと拾い上げるための一つの手段が、物語だった。

困難な状況を生きのびる、主人公が自らの力で活路をひらいていく物語においては、一方でそれがかなわなかった者、力の足りなかった者たちの影が常に見え隠れしている。潜在下にいつも、そんな声なき者たち、消え去った死者たちがいる。それが前提となる。