小隊

砂川文次「小隊」(『文學界』2020年9月号)を読む。北海道に駐屯中の陸上自衛隊小隊長である主人公が、侵攻してきたロシア軍と交戦するという話。背景や状況説明などが省かれていて、いきなり「その場」しかない、非常事態のなかで武器や車輛を示す専門用語たちがちりばめられる中で、まるで「プライベート・ライアン」や「トゥモロー・ワールド」のような、状況把握が可能な俯瞰的な視点は失われたままの強い緊張と不安の中で、それでも規律、法則、行動規範の遵守を最優先とする組織下された人間の内面の感覚が、じっとりと嫌な不安にまみれた臨場感でじっとりとした感触で描かれている。ただその感覚としては、はっきり言って彼ら軍事行動に従事する人たちもおおむね、我々のようなサラリーマンの感覚と変わらないともいえる。というかそれは当然で軍隊的なロジックと会社員的なロジックに違いなどあろうはずはない。ただ一点違うのは、死んじゃうかもしれない不安と恐怖、目の前で誰かに死なれてしまう、あるいは殺してしまう体験が、サラリーマンには、さすがにそれはない、ということくらいか。但し恐怖や不安から離れるためには、そこにある規律やルールにすがるしかないという感覚は、組織下人間にとっては共通のものだ。あるいはすべてを投げ出して逃げる、その選択肢は最後まで残されているという、これもそうだ。冒頭にカナムラ氏という、娘と二人暮らしの若い女性が出てきて、彼女は自衛隊の避難勧告にもしたがわず危険の地域である自宅を動こうとしない--行く場所もないし行った先で生活を支える術もないから--で、話の最後には、焼失して骨だけになった住まいと自動車が残されているだけで消息はわからなくなるが、それでも彼女のような生き方/死に方も、この世にあることは間違いない。ほとんどの人間は、カナムラ氏のような選択は取らずに、指示に従うなり避難民グループに加わるなりする。これも自衛隊に所属することと同様、組織化人間に加わることであり、それだけでHPを少しは確保できるかもしれない。もちろん組織に加わったからといって、助かることが保証されているわけでもない。当たり前のことだが、状況が一層悪くなる可能性もある。交戦する主人公たちの小隊はほぼ壊滅するし、逃げるべきか規律に従うべきか、それを判断できる確たる根拠はない。感情にまかせて、あるいは思い込みで、どちらかを選択するしかない。但し一度選んだらその結果は甘んじて受け入れるしかない。ひたすら受け身で、とにかく生き残れば、それが正解、それがすべてだ。サラリーマンだとさすがにそこまでの窮地はない。生死を賭して…となると、戦争というのはやぱり、大変なことだ。できれば避けたい。しかし選択自体を拒否することはできない。選ばないというオプションはない。選ばないこと(非戦)に限りなく近いのは、カナムラ氏だろうか。最後まで組織に加わらない人間もいる。選ばない意志をもっているわけではないが、結果的に選ばないというか、選ぶか選ばないかの土俵にのぼらない。そのような人間も少ないけどいる。