裸婦

小暮夕紀子 「裸婦」(『文學界』2020年9月号)を読む。主人公の母、この人いいお母さんだなあと思う。お母さんだけでなく、お父さんもたぶんいい人で、姑のお祖母さんもそうだ。それは子供の私からみて、それぞれがそのように見えるということで、実際はどうだかわからない。たぶんもっとややこしくて面倒くさいドロドロしたところも、当然あったのだろうけど、子供の眼に、それはうつらない。我がままを言って駄々をこねても、あしらうような態度でかわされるだけだし、お父さんは泥酔して上機嫌だし、お母さんはだらしない男を介抱し、汚れを掃除し、食事の用意をする。内心は忸怩たる思い、不満の蓄積、押し殺された感情があったとしても、ひとまずはそれぞれがそれぞれの役割をこなしていて、だからその内側の部分は子供の私には見えない。ただし、何らかの予兆、勘、気配がそれとは別のかたちで、子供には感じられる。ある言葉(すもも)とか、傷口からこぼれる黄色い毒とか、そんなかたちでそれらがあらわれる。それが、自分には見えないが良くない何かであると信じる根拠は、子供の中にだけある。

やがて時代を経て、親も子も年齢を重ねる。祖母が亡くなり、父親も亡くなる。親と子であるとか、子である私のあの頃から今に至るまでとか、父が死ぬということとか、今そこにいる老いた母とか、それらは常に、あとからふりかえって考えてみるしか、捉えようののないことなのか。離婚した夫婦の片方が死んだら、もう片方はそれを、無関係な他人の死とは感じないものか。それはふりかえってみたときに、他でもないこの私の過去、その主要な登場人物が失われたということだから、だから残されたと感じた片方の人間は、墓や位牌などをまるで我が事のように処置しないでは気が済まないし、灯篭を元の位置に戻さないわけには行かないと感じる。それをしないと、自分の過去の蓋が閉まらないとでも云うかのようにだ。

水に、仰向けになって浮かんだときに、高く突き出る二本の腰骨、そして陰毛、乳房だけが水面から浮き出る。その裸身が子供にとっては悪であり邪さでもあると同時に、妙に艶やかなものでもある、夢の中だかこその、非現実感をまとった艶やかさ。このお母さんからは、何か不思議な、内側から強く張り詰められた果物のような、瑞々しくて制御不可能な何らかの激しさのようなものが薄っすらと見え隠れしているような感じがある。それが娘の勝手な夢見にあらわれる母親の裸身として、そんな回りくどい方法で間接的に示されている(ようにも感じられる)、その年齢の既婚女性が発散するのかもしれない特有な匂い、のようなもの、それが逆に夫の、社会的存在としても男性としても力不足に甘んじるしかないどうしようもなさと残酷な対比をなしているかのようだ。このお父さんの、死に至るまで続く根源的な力弱さ(もしかすると男性すべてに共通する弱さ)が、また何とも言葉をなくすような感慨をもたらす。

かつての娘にとっての母の裸身、それは終盤の温泉で娘が現実に見る母の裸身ではない。すでに老いた母の裸体は想像と同じではなかった。が、母は、猛然と泳ぐのだ。高齢者でも、こんなに泳げるものかしら。