個別性

近松秋江「黒髪」は、講談社文芸文庫私小説名作選(上)を図書館で借りて、そこに収録されていたから読んだわけだが、他の諸作品を読み進みつつ、やはり十九世紀から二十世紀前半までを、真剣に考えに入れていかなければいけないとあらためて思った。たとえば日本近代美術でも、歴史の流れに沿った主義や流派の変遷として感じ取ることももちろん可能だが、それだけでは収まらない個々の作品、作家の仕事から受けるある種の手触り感というか、匂いというか、言葉に言いあらわしにくい何か独特のもの、それらの時空を越えた共通性というか響き合うものを、無視しがたいものに感じる。この感じこそが、二十世紀の日本の戦前ということなのかと思い、それは戦後に無くなってしまったのか、あるいはまだどこかに受け継がれて残っているのか、あるいはそもそも、そんなものはこちらの勝手な思い込みに過ぎないのか、とも思うのだが、同じように日本の小説においても、自然主義も、白樺派も、新感覚派も、それぞれ作品を個別に読んでいくことで、系統的に感じ取るだけでない何かが見える気もする。小説の場合は、ことに主義や流派にとどまらない要素がたくさんあるようにも思えるし、どれも大体一緒ではないかと思うこともあるのだが、ただ続けて、一つ一つ読んでいくことで、やはり何かある種の独特な手触りというのがあるとは思う。それは告白的だとか私小説だとか無駄のない名文だとか、そういう粗い意味ではなく、もっと微細で個人的な、肌感覚のニュアンスとしてだ。個別の読みで感じ取れること、当時の時代状況などかあら推測できること、現代に置き換えた場合、ここには何が描かれているのかを、じっくり考え直してみることなど。もちろん同時代の諸外国の作品群も、それらとの時代的比較において再度読み直す、あるいはあらためて出会うことが、さらに大事だ。