「黒髪」三部作

近松秋江「黒髪」から「狂乱」「霜凍る宵」まで読了。いずれの作品も青空文庫に収録されていてありがたい。

まず、この主人公がいったいどんな立場で、どんな生活をしているのかは、最初から最後まで明かされない。一人の遊女に異常なまでに執着して、ほとんど狂人のごとく京都を彷徨い歩いているけど、それを支えているものが明かされてない。東京に住んでいることはわかるがどんな仕事をしていて、どんな家庭環境なのか、どれほど生活に余裕があるのかないのか、そのへんはおそらく、意図的に描かれてない。もちろん数年にわたって遊女に金を貢ぎ、京都に何日も滞在できるだけの金はあるのだろうけど、金の工面にはすごく苦労してるとかそういう話も出て来て、決して湯水のごとく金を使えるわけでもない。当時いた平凡なプチ・ブルとでも思っておけば良いのか、あるいはこの小説が私小説で、主人公=作者であるという暗黙の了解を踏まえるということなのか、しかし本文中にそのような決まり事は書かれてないのだから、これはやっぱり出自も状態も謎な主人公の話ということになるだろう。

社会的にも経済的にもどのような生活基盤上で自分を成立させているのかが不明な登場人物が、ひたすら一人の女へ執着するとか、ひたすら滞在先の景色を愛でるとか、食や美に浸るとか、そういった物語からは歴史性が欠落する、それがなぜ成立するのかがわからなくなり、読者である自分と作品との距離感が見失われる。とはいえ、それがここに成立したのは事実であるから、この作品を読むということは、その理由を読み込むための試行になる。そう思って読むと、なるほどこれは徹底していると思う。ある執着、ある心理は描かれる、京都の景色や、秋の景色、真冬の寒さ、火鉢の温もり、は描かれる。関係者の証言が延々と続くところも多い。読んでいて何度も谷崎を彷彿させた。「細雪」の、プロトタイプではないかとさえ思った。ほんとうにどこまでも「情痴」の心情、その有様しか描かれてない。相手の心がどこにあるのかという一束の謎によって物語が引っ張られているところもあるのだが、それも最後はグダグダのなし崩しになって、何が何やらわからないまま終わってしまう。真冬の寒さの中で外塀にへばりついて家の中を見ているとか、閑散とした山中の駅で何の確かな手掛かりもなく尋ね人するとか、汚い荷車に乗せてもらうのを躊躇したのち、その日の捜索をあきらめるとか、およそこの世の凄絶な不毛さ、寒さ、無味乾燥さを味わい尽くした(しかも完全に自分のせいで自ら選んで)その感触だけしか後には残らぬままに、お話が閉じられるといった印象。なかなかの魅力的な謎と滑稽さに満ちた作品だ。

夕方から出かける。新宿のケイズシネマで「台湾新電影時代」を観る。ホウ・シャオシェンエドワード・ヤンは偉大だ…ということを、ひたすら確認し合うようなドキュメンタリー。インタビュー撮影の映像がとてもきれい。ツァイ・ミンリャンとか、ワン・ビンとか、ティエン・チュアンチュアンとか、アイ・ウェイウェイとか、皆さん、こんな風貌のおじさんだったのか…と思う。80年代~90年代に作られた名作の数々、引用される過去作品の場面を観ているだけでも楽しい。