伝承

18日付けの三宅さん、深みと濃さに感じ入った。深夜に笑い死んだ。

距離が近すぎたので当時はそう思わなかったけれども、よくよく見るとアイツは無茶苦茶面白いやつだ、よく考えてみるとあれだけ変なやつは珍しい、あんな常識外れは、ちょっととんでもない、それは大抵の場合、当時性から時間や距離的にいったん遠ざかることで、あらためて見いだされる場合が多い。そこでの発見は、対象の面白さと身体半分は一体であったかつての自分自身を発見することでもある。かつての自分とお前は、こんなことになっていた、こんなわけのわからない闇雲なマグマのような現象と化していた、その意外さに何度でも驚くことでもある。そのことと今との、断絶と継承をどちらもあらたに感じ取ることでもある。

おそらくこれまでのあいだ、何度もくりかえし語り継がれてきたであろうエピソード群、そういった黄金のレパートリーとなった出来事だからこその、過去の確固たる揺るぎ無さ。悲惨や絶望があり笑いがある、その両者に優劣はなく、時間を経て、どちらも等しくくりかえし伝承されるような過去へと変わる。しかし過去はそのまま今とこの場所へつながっている。語る自分らは、時間の経過によって少しずつ過去から遠ざかって行くはずで、その距離の隔たりが大きくなるほど、語りの視点も変わっていくだろう。エピソードはその過去を共有する者たちによって何度でも確認され、必要に応じて細部が更新され、ビルドアップされたバージョンとしてあらためて共有されるだろう。それらは終わったことでもあるが、未だ継続中の出来事でもある。変遷と言っても良いし、循環と言っても良いのかもしれない。