青山

昨日訪れたギャラリーは、ワタリウム美術館の通りの反対側の路地を入ったすぐの場所にあるのだが、外苑前から歩いていくと見慣れぬ景色が続いて、ある地点で急にワタリウム美術館があらわれたように感じられた。いつもとは違う方角から歩いてきたからなのかどうか、記憶が定かでない。そもそもこのあたりにはふだん頻繁に来るわけではないので余計にそうだ。ワタリウム美術館に来るのは、おそらく三年ぶりくらいではないか。と言っても企画展には入場せず、地下のミュージアムショップで画集を物色しただけだが。ドナルド・ジャッドのMoMAでの回顧展図録をパラパラと見ていたら、これが思わず恍惚とするような、ミニマル魂を鼓舞させずにはおかない素晴らしさで、買おうかどうか迷って、悩んだ挙句、見送った。こういうのを見送ってしまう自分は、いったい何なのか。同じ金額だとして居酒屋ならズルズル支払うくせに、本は買わないんだからどういうつもりなのか、人として最低ではないか。

久々にこの建物の中にいると、何かふと、この場所だけが今という時代からぽつんと取り残されてしまったかのような、世の中は、もうまるで違う方向へと急速に移動している中で、この拠点だけがずっと変わらぬまま、いわば「アート」を守り続けて、「アート」発信の牙城であることを引き受け続けて、そうであることの矜持を持ちつづけて、きちんと格好つけて気合を入れて昔から変わらずに踏ん張ってきて、ふと気付いてカレンダーを見たらもう西暦何年になってしまったの?と思わずふいをつかれたみたいな、そんな浦島太郎的な不条理感にふとつつまれた。それはおそらくそう感じている自分自身の側にある問題だ。このショップが醸し出している雰囲気、静けさあるいは「その筋の人」の醸し出す活気、梯子を使わなければ手に届かないほど高い位置にまで並べられた書物や写真集、それらはかつての自分(自分を含む同世代の人たち)が強くあこがれ、よりその世界の奥へ入り込みたい、その場所で安らかにありたいと願っていた世界で、それは基本、今でも変わっていないのだが、でも同時に自分もその空間も、いちようにすべて時間の流れに晒され、押し流されて、まるで数十年前の本が一度も開かれないまま表紙も外装もくたびれて日焼けして劣化して、もはや新品とは言えなくなってしまったのと同じような、だいたいが未開封のままで新古書になってしまったかのような、不思議なあっけなさ、ぽかんと空けられた殺風景な穴のような感触につつまれている、そんな取り残され感を感じていた。もちろんあくまでも自分の頭の中だけで勝手に。

でも、別の意味で、それで良かったとも個人的には思った。こと自分に関するかぎり、大抵の過去は洗い流されてしまってかまわない。昨日みたドナルド・ジャッドの図録がすばらしいと感じるのと、そういった感慨(感傷)は無関係であり、ドナルド・ジャッドの図録は今現在すばらしいのである。だったら買えばいいのに。たしかに。

表参道駅まで歩く途中、もうずいぶん前に、この周辺をよく歩いてたけど、あれは何の目的で歩いてたんだっけ?と話していて、それがなかなか思い出せなくて、ひとしきり考えて、ああそうだった、昔、あの通りの向こうにナディッフがあったのねと、そのことをようやく思い出した。たしかに。あったねえ、でも、あれは十年以上前じゃないだろうか。もうそんなに前のことなのか、ついこの間のことのようだけどなあ…とか何とか。