もの食う女

武田泰淳「もの食う女」(1948年)が、とても良かった。 二人の女性と付き合ってる主人公の「私」。相手の一人弓子は新聞社勤務で快活、活発で社交関係も広く、「私」の弓子に対する想いほどには相手は「私」を想ってないようで、素っ気なくされたりないがしろにされる場合も少なくないので、その満たされなさを「私」はもう一人の相手房子との逢瀬で紛らわせている。房子は神保町の喫茶店の女給で、若くて貧乏なので、「私」が外へ連れ出して食事を御馳走してあげるとおおいに喜び、屈託なく何でも美味しそうに食べ、食べることの幸福に満ち満ちているかのようだ。それを眺めながら、「私」は酒に酔い、その勢いも借りつつ相手に接吻したいと言ってみる。房子はとくに嫌な態度も見せずそれを受け入れる。「私」は相手を抱きすくめて接吻する。そこにはなかば投げやりな、しかし粘りつくような中年らしい性欲のはばからず剥き出しな感じがあり、そんな振る舞いをはたらく自分への憐憫や自嘲の感じもあり、いずれにせよ「私」が房子と共に過ごす時間は、おそらく「私」にとって必ずしも最上のよろこびではない。最上のよろこびとは弓子との逢瀬であり、弓子の自分への好意を感じることだろう。しかしそれがかなわないから「私」は房子に会っているのだろう。房子は「私」を拒まないので、房子が相手であれば、「私」は弓子に苦しめられれるような思いをしなくて済む、房子と過ごす時間は、おそらく「私」にとってもっとも安らげる時間であり、同時に本来描いたはずの欲望を断念するしかない、不満足をつのらせつつそれを認めるしかない時間でもある。

ここで描かれている男女のように、関係は多かれ少なかれ、双方の立場的なものに規定されつつはじまる。はじめから対等なバランスで始まる関係は稀だ(おそらくお見合いや出会い系システムで知り合ってさえそうだ)。手持ちのカードが全く同じの状態でゲームがはじまることはほぼありえない。金のある側と無い側、面白い店や盛り場を知っている側と知らない側、興味を持ってる側と持たれてる側、友人や情報を多く持ってる側と持ってない側。好いてる側と好かれてる側、どちらか一方が一方に対する働きかけを試すことで、関係ははじまる。

しかしこれは、勝ち負けではない。どちらか一方が生き残るための取り組みではない。関係の不平等性、たとえば「私」は、相手の上位に立っている。ある程度、この相手を「私」の言いなりにさせることができる、相手に金や食事をふるまうことができる、それを相手も喜んでいるのがわかるというとき、そのような交換条件を成立させることの出来る「私」と相手の立ち位置の違いこそが不平等であるということはわかっているが、それは仕方がないと思っている。それはそれとして、「私」は相手に施しを与え、替わりに「私」の欲望を適度に満たしてもらおうとする。度が過ぎない程度に様子を見つつ、お伺いを立てつつ、「私」は下らない俺の欲望を、相手に開陳する。

断るまでもないが、この文章は最初から最後まですべて、この小説を読んだ僕の解釈だが、しかし終盤で、そういった考え方の土俵そのものが相手と共有されていないかもしれない、その根本的な驚きというか惧れを、「私」は房子に感じる。「私」は路上で唐突にも房子の乳房へ接吻したいと申し出るのだが、房子はそれをこともなげに受け入れ、暗がりで着物の前をはだけ、乳房を露出し、相手のしたいようにさせる。「私」はそれを口にして、「何かほかの全くちがった行為をしたような気持ち、あっけない、おきざりにされたような気持」になる。「あなたを好きよ」との言葉を残して、房子はやさしく笑ってその場を去る。

「私」はいわば自分の欲望の根拠を根元から折られたようなもので、じつは欲望をささえてくれていたはずの相手と自分との共有が、現実にはなかったのかもしれない、その白けたような現実のリアリティに打ちひしがれている

「私」は房子の態度に混乱する。房子がなぜ自分の言う事を聞くのか、それは房子の「私」への愛か、いやもしかするとそれは、さっき房子にトンカツを二枚御馳走したことの御礼だろうか、トンカツ二枚の代金に引き合うのが、たったいまの行為なのか、と自問する。

この短編はなかなか、僕は好きだ。中年の卑劣な厭らしさが、身につまされるようだし、それに対して全く汚れの染み一つ付かないような、房子さんの最後まで維持される清潔な(というよりもこちらの尺度における清潔と不潔の境界に一切の屈託をもたない)明るさが良い。それも含めて、かなり男性のファンタズムにやさしい話ではあることは認めつつも、まあ実際、、こんなものだよなあとも思う。抽象的な社会的フェアネスとかコレクトネスを謳いながらも、実際誰もがそんなものの有効性を信じておらず、必要に応じてへりくだるし、イケると思えば高飛車に出る。立場や条件の違いによって関係を読み替えている、そんな自分のことを、自分で充分に知っている。それがあなたの限界であり、同時に私の限界だ、この味気無さを、誰もが胸の奥にしまっているものだと世間を見積もっている。それで時折、房子のような相手の振る舞いを間近に見て、不意打ちを食らって、よろこびなのかかなしみなのかわからない何かを感じて、ほとんど快楽のような敗北を感じて、そのことに悦んでいる。図々しくも他人の振る舞いの力を借りて、人の尻馬に乗って、自身の愚さをあらたな気持ちで愛せるような気がしてくるからか。

そのような卑劣で卑小な態度を、それで良いと作品は言ってない。本作にかぎらず、何事かを良いとか悪いとか作品が示すことはない。ことによって、良いとも悪いとも言われるであろう何らかの出来事を、ある時間過程における一連の動きとして示すだけだ。