泳ぎよう

今日も水泳をして、いつもの時間分、いつもの泳距離で終わった。ここまで来ると、マンネリズムを通り越してほとんど儀式みたいである。週二、三回を心がけてジムに通い始めてすでに四年が経過したわけだ。四年…。そんなに続けているなら、さすがに以前と以降とで身体に圧倒的な差が出たとか、そこそこ大きな成果が出たとか、そうあってしかるべきなんじゃないのか。だって趣味であれ仕事であれ、人が一つのことをくりかえし四年も修練したら、誰だって多かれ少なかれそれなりの熟練と向上を見せるだろうし、さすがに素人レベルは脱するだろうし、私はこれをやってますと他人に胸を張って言えるくらいの手ごたえは感じるものだろうし、そうあるべきじゃないかと思う。しかし自己を鑑みてどうだろうか。自分はほんとうに水泳を四年も続けて、今もやってるのだろうか?

やっぱりやり方が、とにかくただ泳ぐだけ、それしかなくて、それ以外の目的を意図的に消しているというか、目標が繰り上がっていかないようにはじめからリミットかけた状態で取り組んでいるというか、そんな態度だからだろう。自らそれを望んでいるのだ。疲労から湧き上がってくるドーパミン分泌による高揚をともなったかすかな快楽の気配、それとイヤホンで聴く音楽、それだけをモチベーションに継続しているのだ。それはたしかにそうなのだが、しかし進歩の無さというのを自覚すると、さすがに「それでかまわない」とは思い辛くなる。何かしら「やりよう」を考えたくなる。こういうのも、ある種の「弱さ」かもしれない。