TOPICA PICTUS

南天子画廊で、岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS きょうばし
Takuro Someya Contemporary Artで、岡﨑乾二郎「TOPICA PICTUS てんのうず」を観る。

絵画=イメージであり、それと同時に絵画=時間でもある。過去から現在へのリニアな流れ、それが時間だ。

AとBとの関係が…というとき、AとBとの時間内における位置取りの問題であることも多い。
そもそも場所なんて、抽象的な仮定ではなく座標情報としての場所を、現実に想像することなんてほとんど不可能ではないか。
其処と此処の違いは、場所の違いであるというよりも、時間的な隔たりによる違いではないか。

時間だけはどうしても付きまとう。時間という枠だけは確固たるものがある。万全な安定感がある。

時間の推移を外的な基準で計れたとしても、それでもし時間の流れがリニアでなかったとしても、その安定感は損なわれないだろう。そのような言説や情報自体が時間枠のなかでしか伝達されないし、そもそも理解や認識を、時間をともなわずに得ることができない。
そんなことは、作品に関係あるだろうか。関係があるとしても、だから何なのか。人間には空気と水が必要で…などと今更言っても愚かだ。

エッシャーのだまし絵は、あれは不思議なイメージが描かれている。一見おかしい、矛盾を内包している、しかし成立している、そんなイメージだ。そして同時に、あれには何の矛盾もない、只のイメージである。矛盾や不思議さというイメージがそのまま描かれている。ルール違反というか約束事の無視によって暗黙の前提が露呈されているだけで、やり方自体に不思議さはなく、まっとうなイメージ操作で作られている。

しかしそれを言うなら、すべての絵はまっとうな手続きで描かれている。まっとうじゃない方法などありえない。これはすべての人間が生まれて死ぬという話と同じである。それを超越したレベルで生きることは無理だし、絵もそうである。

絵を構成する要素は様々で、絵一つにイメージ一つというわけではない。絵はいくつかの要素にわけることができ、それぞれの要素は密接に絡み合っているが、それぞれを単独に取り出して検討することもできる。それが単独であることに驚くとか、それらが関係をもつことに驚くとか、それとこれとの掛け合わせによって生じるイメージと意味の総量の途方もなさに驚くとか、人間なのでどうしても驚きが先立ってしまいがちだが、なにしろ読み込むには相当の処理負荷がかかり、読み込みの終わりは予測できない。

その驚きの凄みがどこにあるのかというと、やはりそれがリニアな時間の流れという万全であるはずの地層にまで、かすかに触れ得るかのような、そんなある種の恐怖に近い予感をふいに感じさせるからだろうか。目の前の「出来事」に目を凝らしながら、これは今リアルタイムであると同時に、ある時間的な集積であるとも思っていて、その成り立ちについて、手探りというか目で追う試行を重ねているうちに、何かありえないような、直ちに否定したくなるような一瞬をはからずも見てしまったように、感じるからだろうか。でもだとしたら、それは錯覚ではないか。そういうことが、このイメージにはまるで含まれてないのに、僕が勝手にテンパッてそう思い込んでるだけだとしたらどうか。単に僕ひとりが愚かなだけというだけだろうか。しかし、観て驚いている自分もおそらくたしかに実在しており、そのような錯覚だか実際だか不明な何かを脳内に生成してしまっていること自体は、僕の報告するかぎりにおいては確かなのだが。