ぎんざ、しながわ、しんばんば

京急線品川駅はいつも混雑している、そんな印象があって、たまにしか乗らないせいもあるが、人のごった返すなか、目的地を目指すには何時発どこ行きの電車に乗ればいいのかがわかりにくくて、ホームに書かれた整列乗車位置の記しも、やたら派手なわりにわかりにくく思えて、いつも慣れない思いで利用している。そういえば品川駅の発車時のメロディが、くるりの「赤い電車」だったことに先日はじめて気付いた。

新馬場駅に降りたとき、この場所って、以前にも来たことあるよなあ…と思った。寺田倉庫の建物を目指すときは、これまで天王洲アイル駅を利用した記憶しかない。今回、はじめて新馬場から歩いてみようかと思い立ったつもりなのだが、実際に来てみたら、既視感がすごかった。さいきん記憶力の減衰幅がはげしい。自分だけでなく妻も同じように不思議がっていて、二人して健忘症みたいになっているのがつくづくなさけない。

銀座の教文館の六階に「ナルニア国」というこどもの本売場がある。ここに売ってる本のうち、自分が子供時代に読んだことのある「いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう」だの「三びきのやぎのがらがらどん」だの「おじさんのかさ」だの「しょうぼうじどうしゃじぷた」だの「おやすみなさいのほん」だの「おそばのくきはなぜあかい」だのを本棚から見つけては、片っ端からひらいて読んでみた。この手の絵本は、自分でもおどろくほどに、いまだに内容をおぼえているもので、ただしおぼえているのはストーリーというよりも絵である。各ページの絵の「感じ」だ。絵としてのストーリーをおぼえていると言えば良いか。物語の筋書きはわかってないというか、それはむしろ子供にはおぼえにくいものだ。おぼえてないというよりも、最初からおぼえない。筋書きをおぼえるには、どうしても共感の意識が必要になる。それに至るための心の引っかかりが、子供のうちは少ないのだと思う。大人になって読み返して、はじめて「こういうラストだったのね」と認識した(ちゅうちゅうとか、がらがらどんとか)。さらに言えば、結局よくおぼえているのは嫌悪感というか、皮膚感覚的な好悪の感覚に尽きるとも思った。「いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう」の挿絵の感じは、僕はそれで、うまれてはじめてコンテ調のパステル画によるタッチをこれで見たのだ。もちろんそれはがどんな画材でどんな風に描かれたのかは子供にはわからない、が、紙の表面に絵肌を粗く残しながらぐいぐいとストロークされて広がる特有の黒い線とかたち、粘り気とざらつきの感じは、当時強く印象に残った。線路や機関車その他の乗り物、あるいは石炭や車庫などの環境、その界隈で働く人々が多く描かれているので、モノクロだけのその世界が余計に独特な質感をもって迫ってきた。子供の自分にとって、この感じは全体的にとても好ましいものだった。子供だまし感、わかりやすい適当感がなかった。そういうのは、子供というのは目ざとく嗅ぎつける。子供は、大人の子供のためを装った自己満足臭をなによりも嫌う。「三びきのやぎのがらがらどん」は当時どちらかというと苦手だった。絵が、好きになれなかった。これが今見てようやく、悪くないなと思えた。今さらそう思っても遅い。今、悪くないと思えるというのは、この話の範疇内においてはほぼ無価値だ。「おじさんのかさ」も当時からさほど良いと思えなかったし、今も印象はだいたいかわらない。もうちょっと絵はいいんじゃないかと思ってたけど、それほどでもなかった。「おそばのくきはなぜあかい」はソバやムギのキャラ造形が秀逸すぎると、今になれば思える。当時はなにしろ、ソバの真っ赤になった足の痛みが自分にのり移ってくるかのような、ぞっとするような感覚が耐え難かった。子供の時にこういうのを読むというのは、徳の高い行為の尊さよりなにより、そのような者が避けることのできない肉体的苦痛への恐怖心ばかりが頭の中を占めてしまうことになりがちではないかと思う。それは臆病な自分だけのことではないはずだと思いたい。