たけばし

絵画はこの世に無数に存在するが、まったく異なる組成の、他とはまったく異なる色彩、形態、構成をもった一点だけの独自性をたもった絵画は存在しない。存在するかもしれないけど、よくわからない。というか、そういうことはあまり重要なことではない。音楽にたとえれば、他とまったく異なる音階秩序や音自体の質感を、まったく独自な楽器を用いて演奏されたようなものは、この世のどこかにはあるだろうけど、それをもって独自の価値を有するわけではない。というか価値が見出されるならば、それは既存の形式との比較においてだ。

絵画を観るとは、自分が絵画だと思っているものと、目の前にあるそれを、自分の頭の中で混ぜ合わせること、でもある。

 はじめて出会ったこの人は、はじめて出会ったのだから、この人は自分にとってまったく新しい出会いである。

しかし、であるにもかかわらず初対面のその人は、必ずと言ってよいほど、かならずかつての誰かに似ている。

こんな人にはじめて出会った、そう思っていたとしても、そのどこかに自分の過去の記憶の何かが参照されていて、なにがしかのつながりがつながったり切れたりしている。いったいどんな組み合わせなら、この初めての経験を自分の中に位置づけられるのだろうかと夢中で探っている。

人間は勝手な生き物なので、はじめての相手をそうやって自分の勝手な過去の記憶の一つに落とし込もうとする。その人はこれまでもずっと、そうやって様々な人から勝手に思われて、勝手な記憶の一か所に位置づけられ、その積層の一部とされてきた。そうしてその人は無数の共有項となった。

はじめてあったこの人は、すでに歴史的だった。それははじめての新鮮ささえ織り込んだ上で、目の前にあらわれた。

今でありながら過去だった。顔が過去の方に向いているのではなくて、前を向いているのにそれ自体が完成しているのだった。

わかっているつもりの過去、頭の中で、知った気になっている過去というものがあり、つい一週間前か十日前くらいに観た同作家の作品の記憶という過去があり、今日美術館に来てから会場内をゆっくり一二時間かけて巡りながら観てきた国内外の近・現代美術という過去があった。

「TOPICA PICTUS たけばし」は、それらと響き合っている。

きょうばしはヨーロッパ、てんのうずはアメリカ、たけばしは日本…と思った、それはあまりにも、いいかげん過ぎるというか、おろかな感想だとは思うが、いちおう書き残しておこう・・・