禁句

昨日の、白銅貨が出てくる物語が何だったのかがわかった。新見南吉「手ぶくろを買いに」で間違いないだろう。青空文庫にあったので確認した。物語はまったくおぼえてなかったが、白銅貨にまつわる箇所は、当時受けた印象の記憶をおぼろげながらよみがえらせた。しかし主人公(狐)は白銅貨をポケットの中にではなく、手に握っていたのだった。寒い冬が舞台の話だったことはおぼえていた。白銅貨が本物かどうかを確かめるときに、二つの硬貨を合わせて音を出すくだりも、ああそういえばと思い出せた。その「チンチン」という音から、架空の硬貨の手触りや硬さを想像したのだろうと。

ところで子供とは、ある種の擬音にざわつく生き物だ。小学生のとき、授業中に教師がこの物語を朗読して、文中の「チンチン」という擬音語を口にすると、そのたびに、決まって押し殺したような、内緒話の共有されるときの独特な淫靡さを含んだ、吐息混じりの低い笑い声が、教室のそこかしこから聞こえてきたものだ。抑えようとした笑いは、かえって内側で膨張して、堪えきれずに漏れ出たものが周囲に伝播して、火の手のようにあちこち移り広がる。教室全体が、くすぐったいのを我慢してるかのような落ち着かなさにつつまれて、最後には教師が不機嫌になって、ときには怒声が上がる。

あるいは、朗読を命じられた生徒の誰もが、その擬音語を口にするのを嫌がる。周囲とふざけ合って顔を見合わせ笑いを堪えて身をよじり合ってる男子はともかく、女子にとってその言葉を口にするのは、ほとんど社会的な死を意味するかの如くだった。最悪な運命の巡りあわせによって、指名され朗読を命じられた女子は、孤独にその場で起立し、両手に教科書を持ったまま、周囲から低く聴こえてくる抑えた笑い声につつまれて、万事休すの状態で凝固している。決してその言葉を皆の前で口にすることはできない、たとえ命を奪われても命令には従えない、ひとしきりの懊悩と葛藤を経て、やがてその女子はさめざめと泣き出す。ああ泣いちゃった…と、教室全体が事態を受け止める。真顔に戻る者と相変わらずな態度の者がいる。あんたが笑うからでしょと、とりわけ浮かれていた男子が別の女子から非難される。教師は表情に困惑を浮かべながら、じゃあ、もういいから座りなさいと、しゃくり上げている女子に告げる。

ちなみにこの擬音語は「手ぶくろを買いに」本編中に、あろうことか二度も登場する。きわめて危険かつ厄介なテクストとして、この小さな物語は当時の小学生をしばしば憂鬱にさせたのである。