新年深田

深田晃司「淵に立つ」(2016年)。難しいモティーフが選ばれているなあ…と思いながら観た。浅野忠信をどう考えるべきなのかが、映画を観終わっても、いつまでも心に引っかかった。夫と妻それぞれ罪の意識から逃れられなくなる格好の装置として、浅野忠信があまりにも便利に機能しすぎではないか、そんなキャラクターって物語的にちょっと都合良すぎないか?という、もやっとした違和感がどうしてもぬぐえない。後半の夫婦の葛藤とか、息子の登場とか、終盤にいたるまでの感じはかなり引きこまれた。この手のテーマをここまで真正面からガチで描き切った映画って、今どきそうそう無いだろうとも思う。それだけに、こう、何かが引っかかる…。またキリスト教的「信仰」というものが、ここでは最終的にはまるで救いにならない、平常時には他人を浅はかに誤解する種にしかならず、その後本当の苦難に苛まれた当事者からは一瞥もされないみたいな、やや悪意さえ含んだかのような意味合いを感じさせる。その解釈もおそらく意図的なのだろうが、「罪」の問題というのは、けっこう王道だし、物語の題材としてこれまで何度も扱われたテーマなのだと思う。で、その結論として、かつてのどれでもない何かへ指先をひっかけたいという、今それを作ることの意味を磨きこむかのような、執念のようなものが感じられた気はする。気合に満ちたすごい作品だとは思うし、また再度観たいとも思う。

それにしても、これが元日の昼間から観る映画かよ…と突っ込まざるを得ない最悪の陰鬱さで、そこはかえって、なかなかの満足度だ。

続いて深田晃司「歓待」(2010年)。突然の自宅への闖入者が夫婦間に緊張と不安をもたらし、何事かが動き崩れ、状況が変わっていくというプロットは、見事に「淵に立つ」と同一なのだが、本作の夫婦はこの物語の前後で明らかに活性化し、場と関係を新たな新鮮さでとらえることが出来るようになっており、作品鑑賞者が感じる後味も「淵に立つ」とは真逆の楽しさがある。まあ、とつぜん住み込みで働き始めた男がやがて奥さんを連れてきて、じょじょに夫婦間の秘密や秘密に介入しはじめて、最後はその住居自体にまったくの部外者が際限なく出入りして内外の境界がなし崩しに決壊して、果ては祝祭的な大騒ぎになって、でもそれは唐突にまるで一夜の夢が消えたみたいに終わる…みたいな、まあそういう系の幸福な話で、なるほどそういうやつね、とも思えるのだが、画面を観ていればそれはじつに楽しく幸福なものである。本作において素晴らしいのは、ロケ場所として使用されたあの古びた二階建ての戸建て住宅であろう。今どきこんな印刷所ある?こんな古びた木造の住まいある?こんな二階に他人が住み込むみたいな生活様式ってある?と、ひたすら突っ込みどころの連続だが、でもそれが、じつに素晴らしいのだ。五十年代の様式が当然のごとくそのまま現代も生きていて、そこに不法入国の外国人やら得体のしれない誰かやらが当たり前のように出入りし始める、そんな場面を観ているだけでも、心躍るような何かがある。