音楽の時間

六十年代前後に活躍した往年のロックバンドによる長尺の即興演奏がとても好きで、自分が高校生だった八十年代後半、その時点で既に十分古臭かったそれらのレコードばかりを集めては聴いていたのだが、何がそれほど良かったのかといえば、各楽器の、音と音がぶつかり合ったり離れたり調和したり混交したりするなかで、演奏がすすむにつれて、聴こえてくるものが次第に、それまでのパターンにあてはまらない、そのどれでも無いようなものになって、それまでとは違う時間が生じるように聴こえてくるときがあって、そこに、只ならぬ瞬間を聴きとれているような気がしたからだと思う。

各楽器が、音を出すでもなく、音を止めるわけでもない、何らかの意志を示すわけでもないが、無意志なわけでもない、おそらく、疲れた、死んだような目で、互いが互いを見ていて、互いの出方を、手の身動きのかすかな気配を待っていて、互いが互いの思惑と関心を探ろうとしている、見合って、聴き合っている、そのような瞬間が、長尺の即興においては、ほぼかならず訪れるように思われる。

音楽におけるそんなひとときを、何と呼ぶのが適切なのか。待機とも違うし、準備とも違うし、休憩でもない。演奏が続いているのに、皆がそこから少し外へ出てしまっているような、得体の知れない、異様な時間、しかし時が来れば、またふたたび皆が元の演奏へ戻っていくことが確実な時間でもある。だからそれは、決して気安い時間ではなくて、むしろ緊張と不安をたたえていて、その演奏自体がもっとも脆弱でリスクに近づく時間でもある。

そのような時間を、音楽のすべてとして展開させた、最初から最後まで、すべてがそのような時間に塗りつぶした即興音楽。自分の初経験として、おそらくヴェルヴェット・アンダーグラウンドの即興演奏こそまさにそれだったのだと思うが、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドやそれ以降に派生した近似ジャンルの音楽のオールオーバー性(非反復性)の時代を乗り越えたかのように、(ちょうどその時期の音楽として)、当時ブリストル地方出身のミュージシャン(マッシブ・アタックやトリッキー)らの作成した、きわめてダークなバックトラックが、そのような時間を丸ごとサンプラーに取り込んでループさせたもののように、自分には感じられたのだと思う。

即興演奏としてのジャズを聴く一方で、即興演奏内のある時間を引き延ばしたようなノイズあるいはアブストラクト・ヒップホップを聴いていた時間、それらが自分にとっての九十年代半ば頃の大幅な部分を染めていたのだなと思った。