茶わん

骨董を見るというのは、本物と偽物を見分けるということでもあるけど、どちらも本物であるときの、その良さの段階を見分けることでもあり、そちらのほうが難しいと。見ているそれが、それが「良い」ときに、これまでの過去に、この器は今と同じように誰かによって、何万回も何十万回も、こうして見られてきた、それを感じるのだと、小林秀雄は言う。

本物が正解で、偽物が不正解ということではない。その価値判断を保証してくれるものは無い。しかし正解を、自分本位に決めて、自分が楽しめば良い、というものでもない。価値は過去から続く「見る」という行為の積み重ねで、自分の行為をそこに重ねていくことで判断されるしかない。…と書くと、まるでディープラーニングのようでもある。

現代における、鑑賞というものの態度・心構えが、根本的に脆弱過ぎるのだと。美に対して、構え過ぎで腰が引けすぎ。とはいえ我を前面に出して済むものでもない。

茶わんなんて、昔の武将が戦争している途中で、ちょっとお茶を飲むための形をしているのだと。あれはそういうものだと思って見れば良いのだ、きちんと正座して鑑賞して、そこに何を観るのか。

これはたぶん「わかってないなー、それは実はこうなんだよ」みたいな話ではない。何かを習得するときの、もっと身体を柔軟に、気構えもいったんリセットして、ゼロからやり直してみろという感じの話に近い。