カテゴリーの内側

先日、本棚の大棚卸をやって、奥から出てきた古い本のなかの一冊「男流文学論」(上野千鶴子富岡多恵子小倉千加子)を読んでたら面白い。今読むと、過激とか下品とかの印象はあまり受けず、むしろかなりまっとうな内容に感じるところが多い。とくに三島由紀夫の章。与太というか床屋談義っぽいのだけれども、それでも結果的に三島由紀夫について、かなり鋭く奥深くまで切り込めているような感じがあって面白い。

以下は谷崎潤一郎の章の一部。なぜ?という理由もないのだけど、なんとなく長々と引用してしまった・・・

小倉 ところで、ほんとに上野さんは、御寮人様とかいう手紙をもらったら不愉快ですか。
上野 怒りますよ、それは。私はカテゴリーとしての女ではない。
小倉 じゃあ、私にふさわしいラブレターというものがあるはずだという信念があるわけですか?
上野 何がいいかはわからなくても、何がイヤかはわかります。
小倉 そうかな。ああいうラブレターをもらっても私はべつに不愉快じゃないんですよね。
上野 あ、ほんと?
小倉 うん。もうそれしかないじゃない、とかいう気持ちがあるんです。
上野 信じられない。小倉さんがそこまで世の中に絶望してるなんて。
小倉 現にそういう生活をしている女の人はたくさんいるわけでしょう。そういう女のひとに対して、フェミニストというのはどこかで、あっちのほうが、進んでいるのかなとか思いません?それこそ関西でいったら甲南を出て、あるいは神戸女学院を出て、そしてこういう優雅な生活を送っている人いるでしょう、友だちで。そうすると、上手に頽廃してはるなあと思うんですよね。
上野 そう、そう。
小倉 そうすると、頽廃できない自分というのは不器用だなあ、と。
上野 上手に頽廃してはるというところまではいいわよ。だけど羨む?私は羨まないよ。
小倉 そのへんになったらちょっとむずかしいですけどね。向こうは転び伴天連みたいなものでね、上手に、踏み絵、踏んではるやんか。私だって踏みさえすれば、べつに釜ゆでの刑にならへんのに。でも、あの人たちは私よりももっと絶望の淵を見ている、と思いたい。
富岡 絶望の淵なんて見てませんよ。
上野 だから、「と思いたい」って彼女は正直に言ったじゃない。
小倉 見てなかったら腹立つだけですけど。
富岡 そんなもの見てませんよ。安心しなさい。
小倉 ほんとに?私らだけが見てるんですか。そら腹立つだけですよ。
上野 腹立てたらええやないの。
富岡 私らだけが見ているとは言ってません。見ている人もなかにはいるかもしれない。でもほとんど見てません。
小倉 じゃあ(谷崎)松子さんは見てない?絶望を見てない?
富岡 見てないと思いますよ。
小倉 (谷崎)潤一郎が死んだ後で、彼は私がちゃんと生活がしていけるように自分の死後のことまでちゃんと考えてくれらのは感謝の念にたえないとか、お墓参り一生懸命するんや、みたいの書いてはるじゃないですか。私、それもね、ほんまは全部嘘やと思うんですよ。彼女はそんなん本気で言ってないと思う。生きてる間はうるさい夫やったけど、死んでしもたら私の天下や。どっちみち人生なんていうものは、私みたいにこういうふうにやっときゃええやないか。あんたら何むきになってるの、あほちがうかって。人生て、この程度のものなんや、あんたら何を論じてるのん? って言われているようなコンプレックスはずっと感じるわ。そんな人はちゃらちゃら着飾っていても、どこかに陰影がある。
上野 それはルサンチマン溜めているというだけじゃないの。松子さんだって谷崎にすごいルサンチマン溜めていたと思うよ。たとえば子ども中絶したこととか---。
小倉 現に子どもをポコポコ生んでいる人はどうなるんですか。私はそういう人のなかにも感じるの。
上野 生んでも生まなくても、女にはルサンチマンが必ずあるわよ。それを”翳り”とあなたが言うのは勝手だけどもさ。ちょっと過大評価じゃない?
富岡 次の花見に行くのにどんな着物を染めよういうたら直りますよ、そんなものは。
上野 許容できる程度のルサンチマンなのよ。いまの生活と引き換えにする気にはとてもなれないくらいの。
小倉 上野さんのことばでいう「ひもつきの自由」でしょう。ひもつきなんだけど、ひもを見る人と自由を見る人と二とおりいるわけですよね。
上野 そのひもが、許容できる範囲なのよ。彼女たちにとっては。でも、そんな明るい晴々とした顔をした主婦なんかどこにもいないわよ。たとえば松子さんだって、谷崎に対して「死ぬまであの人は私に夫婦らしい打ち解けた語らいをしたことがなかった、それが私にはとても心残りです」って言ってるじゃない。だけど、生活と感情を天秤にかけて、だから我慢しようというふうには普通は思わないのよ。自分が獲得しているものは獲得しているもの、自分のなかでたまった恨みは恨み。それはそれで、どんな女だって持っているじゃない。
小倉 どんな女であれ、人生に対して持つルサンチマンは一定量であると。
上野 違う。一定量なんて言ってないって。ルサンチマンのあり方が、主婦とは違うの。私だってルサンチマンはないとは言わないけれども、これは私が勝手に抱えているルサンチマンだという自覚があるから、原因を他人に責任転嫁はしませんよ。
小倉 あの人たちだってそうですよ。その人生を引き受けたわけでしょう。この時代に職業婦人になることだってできたけども、そんなあほなことはせえへんと。
上野 この時代の主婦にそんな選択の自由なんかないよ。ただそこに与えられたものを従容として受け入れたわけでしょう。選んでいるわけじゃないと思う。だけど実際やってみるといろんな不都合があって、男ちゅうもんは我儘なもんやなあ、好色なもんやなあと思いながら、そのルサンチマンをため込んで生きてきたんでしょう。
小倉 日本の主婦全般が実はそうなんだろうけれども、私は向こうのほうが賢くて私はアホな生き方をしていると思ってますよ。あれが間違ってこっちが正しいというふうな、そういう単純な二項対立的な図式は---全然持っていないですよ。
上野 カテゴリーのなかに自分を溶かし込める女ならそれができるんでしょうね。
小倉 だから上手に溶かし込めるように私かて育ててもらいたかったというわけですよ。
上野 それはある。
小倉 なんでこんなふうになったんだって。
上野 わかる、わかる。私の親は私を女としてうまく社会科しそこねたということはあるわね。
富岡 親を恨まない?
上野 親は恨まない。
小倉 女の子が、温室の中で芽を出した球根だとしたら、フェミニストになるような人というのは、すべての栄養素みたいのを完璧に与えられた球根だと思うんですよ。だから、すくすく、すくすくと育って、温室の天井の壁を破って---(笑)
富岡 成長率がよくてね。
小倉 だから、家庭にしても学校にしても、なんであんなにまんべんなく土壌を豊かにして、いっぱい栄養分を与えてくれたんだ、と。どこか欠けてたら、私もそこそこの背の高さでいられて。
富岡 温室のなかで棲息できたのに。
上野 私は自分のことをアンダーソーシャライズド・パーソナリティ(過小社会化人格)だと思ってる。社会化がうまくいってないのよ。どういう理由かというと、親が私にさまざまなしつけを与えたなかで、たった一つおこたったしつけがある。それはね、耐えるというしつけだったの。女の子に不可欠な耐えるというしつけだけを、彼らは私に与えそこねたの。
小倉 私は負けること。上手に負けることを教えてもらえなかったんですよ。
上野 そうでしょう。同じじゃない?富岡さんも。
富岡 私は違う。私は負けることも教わりました(笑)。耐えることも教わりました。タエ子です(笑)。
上野 だから「ガラスの天井」知らずだったのよね。我慢するということを教わらなかったの。それは女の子であるために必要不可欠なしつけのはずだったのに、私の親はそれをおこたったの。
富岡 それは、女の子ひとりだからよね。むしろ、お前は女なんだから何も我慢しなくていい、ってマイナスを極端にプラスにさせられなかった?
上野 そう、そう。だからペットよね。ペットは我慢しなくてよかったの。親が、息子には辛抱を教えたのに、娘には教えてないんだもん。
冨岡 本来ならば逆なのにね。
小倉 私はそんなんじゃないんですよ。ペットとかじゃなくて、ただひたすら、よその子に負けるな、とね。違うねんからと言って、性別しつけをちゃんとしていただければ、私も松子夫人みたいになって、今頃こんな人らと議論してんと、花見に行く着物の柄を選んでた、いうのね(笑)。

 自分は親に何を教わって、何を教わってないのか、しばし考えてしまった。というか、僕はわりと、カテゴリーに自分を溶かし込めるところがあるし、カテゴリーを必要とする人だとの認識だ。きっと色々と、とても中途半端に、教えられたり教えられなかったりしたのだろう。。