再帰性

保坂和志 小説的思考塾 official #2」をリモート聴講した。以下自分なりに、メモを元にした覚え書き。

読解力は害悪。それは官僚の忖度に似ている、読解するな。そういう力を鍛えるな。

聴きなれない言葉や見慣れない言葉を、辞書のようにおぼえてしまうのではなく、それをいかに自分のなかに無理やりにでも消化して咀嚼しようとするか。辞書や百科事典的な知識、蘊蓄としての知識しかもたないということの、どうしようもない薄っぺらさ、それは小説からはるかに遠いもの。

作品に対して、なんとか賞の選考委員が何かを言う。あたかも選考委員が高い位置にいるかのように言う。でもその選考委員は自らの言葉によって、その欲望を見透かされ、値踏みされ、計られる。論じてるあなたが、その言葉によって見られる。言葉を発したら、その言葉は思惑のとおりに受け取ってはもらえず、むしろその下心、あなた自身の欲望を先に読まれる。

再帰性。分析する側も患者と同じ平面にいて、そのサイクルに巻き込まれる。あなたとわたしは同じ土俵にいる。わたしとわたしの書くモノは同じ土俵にいる。操作するものとされるものの関係など作れない。だからわたしはわたしが書いたことに傷つく、それでも自分が書き始めて、やがて書き終えたとき、その段階でわたしは以前とは変わってしまっている。自分から出た言葉に、自分で傷つかない人はいない。喋ってる内容に、無傷なままでいられる私なわけではない。メタレベルはない。

ところで、自分(保坂和志)は、自分ひとりの力では、こんなふうにインターネットを介したリモートでのトークなど出来ない。これを実現するためには、手伝ってくれる若い人の協力がなければできない。それはその通りだから、出来ないよりも出来た方が良い。とはいえ、出来ること、スキルがあることのデメリットもある。何かをするために、すでにスキルを持ってしまっていることに無意識・無自覚になってしまう、知らないうちに何かを習得してしまっていて、そこに気づけない、それが見えない足枷になる。本来なら誰に指定されたわけでもないのに、習得済みの自分がもともとのかたちを最初から規定してしまう。そもそも、文章は誰にでも書ける。紙と鉛筆があればできる。紙と鉛筆があれば実現できるはずの根本的な場所への想像力が忘れられてしまう。