書き捨て

道を歩いていて、あるいは電車の中で、あるいは食事中に、ふと思いついたことをがあって、ならば今日のブログはこのことを書こうと思って、だいたいの概要まで想像することがたまにある。しかし、そういうときは大抵しばらくすると、さっきまで考えていたことを忘れてしまっているし、いったい何についてそう思っていたのか、その段階すらまるで思い出せなくなっていたりする。これが冗談抜きで、最初の思いつきを終えてから、たったの十五分かそこらで、気づけばすっかり忘れてしまっていることも珍しくない。それで、あー、ほらな、なんとなく予想できたけど、やっぱり、きれいさっぱり忘れてしまったな、などと思うことがじつに多い。それならば概要とか、キーワードとか、思い出すきっかけになるような一言二言でも、その場でスマホにでも入れておけば良いようなものだ。じっさい、そうやってメモに残すこともある。そのおかげで書くことができた日ももちろんある。ただし、後になって読み返してみたときに、当初感じたはずの、その面白さがいっさいピンと来なくなってることも少なくない。これの何を面白いと思ったのか、訝しく感じることのほうが多い。これもつまりは、書いてあるテーマとかワードではなくて、そのとき思いついたその全体的な何かで面白かったはずなので、その一部テーマだのワードだのだけを、あとから再生しても、だいたい意味がないというか、無駄な試みに終わることが多い、ということになる。それでも、何かを書き残しておこうと思っただけでも、その日はまだマシな日である。まったく何も、そんなことのない、書く題材なんていっさいない、書くとかそんなことと無縁に過ごしてしまう一日だって、いくらでもある。もし書かなくても、書く予感や期待やあきらめをはらんだ一日の生活というものがあることはある、のだが、無い日もある。たとえば今日もそうだ。いや実際はそんなこともないのだろうけど、こうして書く構えになると、もうだめだ。だから、それでもなお書くというのも、ある意味、考え物である。けっして健全な営みであるとばかりは言い切れない。ガサツで乱暴な加工の犠牲にしているだけなのかもしれない。書き捨て、というのは文章を捨てることではなくモチーフを捨てることかもしれない。記憶の細かい大事な要素をもったいないやり方で見限っていることかもしれない。