公的

さりげなく巧妙にこちらを支配しようとする、こちらの内面から統治をもくろむような、そういう言葉には注意しろと、保坂和志はことあるごとにそういう話をする。心地よくて納得できる、一見もっともらしい、場合によっては感動させる、しかし内実は脅迫であり恫喝であり支配でもあるような言葉。その裏には、向こうにとって都合のい、向こうの思ったようにこちらをうごかそうとする意図が隠れている、それに敏感でいること。

そんなこと言ったって、現にこの条件で、これだけ報酬をもらえて、こんな暮らしを手にすることができるなら、それは悪くないでしょ?あなたと私が、お互いに幸せになれるということだよ。それは現在の最先端技術によって可能になったもので、誰がどう聴いても「いい音」でしょ?と。

たしかにそうだ。現に今、僕もその恩恵を充分に謳歌している。それは認める。でも、あなたのそんな論法に対して、それは「いい音」かもしれないけど、かつてのあれも「いい音」ではあった。あなたが勝手に、それを余計な条件要素に換算しているけど、あれはそもそも、そんな風にくらべるべき何かではなかった。あなたいつでも、それを勝手にそれを狭めて、いかにもそれ風に仕立てた枠を持ってきて、その枠の中の選択肢から我々に選ばせようとしているだけじゃないですか、と。

つまり、その手にはのらない、ということで、奴隷の快楽をきちんと拒否できるかということ。しかしそれが難しい。

奴隷の快楽とは「公的な実感」に、かぎりなく近い感触であったりもする。…などと新潮2021年2月号「家族と敗戦 江藤淳論」先崎彰容を読みながら、考えていた。

公的なものとは、国家や行政、あるいは役所の事務手続きとか税金とか福祉サービスとかの厄介で面倒な仕組みのことだから、そういうのとはなるべく無縁に、勝手に生きていきたいと、若い頃は思っていたし今だって基本的にはそう思ってはいるが、じっさいはそれほど単純な話ではなくて、まず公的であることすなわち、他者との関係付けが成立していることであり、それをもってはじめて日常を送れるのだと、そういうことに気付き始める。

ある契約にもとづいた持ちつ持たれつの関係分子として、私はそこにいるというときに、私ははじめて安定をおぼえる。他者をみうしなえば、公的なものは一切機能しない、国家や行政やこの世の仕組み、価値の動く感触、世界の感覚、関係の実感、それらのいっさいが機能しない場所で、私は私そのものの位置を見失う。

私を私としてつなぎとめてくれる、ある秩序としての「公」。それは私を「庇護」してくれるものであり、あるいは「搾取」するものでもある。そのどちらでもあるし、そのどちらでもない。人は自分が求めたいものをそこに求める。見たいものを見て、聴きたい音を聴く。