アルコール

図書館までの道を歩いていて、かりに、ふいに僕らが、今どの店に入ったとしても、どの店であろうがビールを注文できないというのは、これはすごいことだな・・と思う。

大江健三郎の小説と村上春樹の小説とで、とくに初期~中期の作品に共通する特徴だと思うのだが、登場人物たちは、いつもことあるごとに、大量にアルコールを摂取している。それは美味しいから飲むというよりも、神経的な不安をまぎらわすためであったり、もてあます退屈をつぶすためであったり、何かしらの効能を求めてそれを飲んでいる感じであることが多い。レストランで食事しながら飲むのではなく、自宅で缶ビールを飲む、バーのカウンターで会話の合間に飲む、あるいはウィスキーのボトルを直接口に運んでいたりもする。それはタバコを喫うのと同じ程度に喉に流し込まれるか、薬物の摂取と同程度に服用される。彼らはおそらくそれを、美味しいと思ってはいない。美味しいと思っていたとしても、ことさらそれだけが美味しいのではない。かつて喫煙者が、タバコそのものをそれだけ切り取って美味しいとは言わなかったのと同じく、飲酒者もそれを単体でことさら美味しいだの不味いだのとは言わない。もとより酒も煙草も、そういう対象ではないのだ。

そんな小説を読んでいた若いころに、煙草も酒も、そういうものか、そういう飲み方をするものなのかと、それで「間違った教え」を教示されてしまい、そういう飲み方を「目指して」、結果、だいたいロクなことにならない、ひどい目にあうか何の面白味もない結果をかみしめる、そんな味気無さのなかにうろうろ徘徊しているだけ、みたいなことの日々が積み上がるばかりだった気もするのだが、逆に今だと、間違ってもお酒を、そういう飲み方はしたくない、そんなのは、時間もお金ももったいないという、知ってしまったがゆえのセコさ、ちまちました配分計算、計算高い中年の吝嗇さ丸出しな感覚を自覚せざえるをえず、そういうのが何十年ぶりに再読している小説とぶつかり合って、ああ自分も変わったなあ…と思うことしきりだ。