参る

晴天だというのに、水元公園はかなり人が少なかった。おそらく駐車場が閉鎖されているからだろう。そのわりにはけっこう人が多かったと言うべきかもしれない。

お前の祖父がいるのだから、お前も靖国神社に参ったらどうかと、亡父から言われたことがある。生前の父は上京するたびに参拝して手を合わていたようだ。

自分は、遊就館に行ったことは一度あるのだが、靖国神社をお参りしたことはない。というよりもすべての神社仏閣を「見る」ことはあっても「参拝」することは、まったくない。どの神社でも寺でも、参拝客はいるので、その邪魔にならないように心がけはするが、それでも建物の前をうろうろしながら見上げたり奥を覗き込んだりしていれば、すでに充分邪魔かもしれない。

これはことさら不遜な態度を取りたいわけではなくて、逆に宗教施設を観光しておりますという自らの立ち位置を鮮明にするためでもある。とはいえ葬式に参列するなら焼香したり手を合わせたりはさすがにする。

したがって自分が靖国神社をお参りする可能性は少ないが、とはいえ「お前も靖国神社くらい参ったらどうか」と言う親の子であるのは、それもまたある種のルーツではある。ルーツというもの自体に意味はないと思うが、何かのきっかけや判断の根拠になることはあるのかもしれない。あるいは、なぜ自分が今ここにいるのかを考えるための材料になることはあるのかもしれない。

「親がクリスチャンだったから、自分も洗礼を受けた」という人は、けっこう多い。おそらく信仰というのはそういうものなのだろう。外部から与えられるというか、最初から規定されていたものを受け入れるようなものなのだろう。

信仰をもつというのは、家を継ぐようなものだ。逆に、家を継ぐというのは、信仰をもつようなものだろう。それは普通のことだ。そうしない人生の方が稀である。ことに日本人においては稀だろう。

無神論者」として生きるというのは、ほんとうは只事ではないような厳しいものであると、何かに書いてあった。日本には「無神論者」などいない、とも。

水栽培のバジルを、成長したやつから順々に摘み取って料理に使っている。けっこう、いい香りがする。イワシを三枚におろして、単純に香り付けしたオリーブオイルで加熱して、バジルを加えただけで、とてもシンプルながら、なんて美味しいのだろう。

こういうものを、いつまで美味しいと感じることができるだろうか。こういうものが美味しいならば、ジジイになっても、いつまでも食っていたい。ジジイになっても、酒を飲めなければダメだが。もし酒が飲めないならば、イワシなんかを食べたいだろうか。

防寒着を着て、熱いスープを飲んで、真っ白い湯気と吐息がたちのぼるようなシーン、あるいは蒸し蒸しした部屋の片隅でだらりと四肢を投げ出して、ときおり団扇で物憂げに自分をあおいで、何の気なしに窓の外を見ると、深緑の森林と空が広がってる、そんなシーン。観たい映画のタイトルを具体的に思い浮かべていたのではなくて、暑い映画と、寒い映画の、自分はどちらを観たいのか。