反復

大江健三郎万延元年のフットボール」の鷹四は、暴力衝動と自己処罰衝動とあいだを激しく揺れ動くようなやつで、こんな厄介な人間が煽動することで、一揆や暴動が具現化するものなのか、おそらくは人を惹きつける魅力も持ち合わせているような、暴力の悲劇の要因には、いつもこんな人間がいるのか…とも思うが、その一方で、鷹四は人間一般から抽出されたある傾向モデルとして形作られた登場人物のようにも思われる。

兄の蜜三郎は、鷹四の思惑や心魂の根底まで見通すことの出来る視点と洞察力をもっているというよりも、まず最初に、ある人間一人の内面描写の解像度が異様に上がって、それがやがて二人の登場人物に分かれた、という感じがする。蜜三郎と鷹四との対話は、二人の人物による対話というよりも、ほとんど一人の人間が自らの内側で二つに分かれて葛藤しつつ対話している状態に近い感じがする。自分が自分に問うと、自分が思いもよらぬ言葉を返してくる、あるいはまるで知らなかった、記憶になかった秘密の告白が、いきなりはじまる。それを強い驚きや嫌悪や拒否感をもって聞く。しかし実のところ、それは皆、既に知っていたことだと、どこかで気づいてもいる。それは対話でもあるが、自分自身を掘り下げていき、これまで見ようとしていなかった自分、おぞましくも不気味なもう一人の自分を、じょじょに発見する過程のようだとも感じた。

とはいえ、調子づいてイケイケな弟を疎ましく思いながらも自分のペースを何とか維持しようとする、弟にかぎらず、取り巻きやら谷間の住人やら奥さんやらとの関係において、気掛かりや不安や怒りや諦念に苛まれる理由が掃いて捨てるほどある、この兄の焦燥感とイラつきの感じがおそろしく細かく具体的に執拗に描かれていて、その苦しさの中にひたすら留まってモヤモヤを味わい続けるのが本作を読む体験のかなりの割合だとも言えて、その意味では一人の人物の内面のみで展開される自己対話という感じはまったくないのだが。

カリスマ、指導者、精神的支柱、総統…とは何か。それは他者ではなく、魅力とか美でもなく、まるで私の想像のなかにいるような誰かのことだろう。その誰かは私を夢中にさせ、私の思いを代替し、私のうつくしいと感じる対象そのもののように見えるが、それが目のまえにいる誰かのうつくしさではなくて、私がそう思いたいうつくしさを投射できる白い布のようなものだ。それが白い布であることも、そこに投射したイメージを見ているのが私自身であることも、私ははじめからわかっていて、あえてそうしている。今はその気持ちよさに淫していたい。そのような状態に自分を置くことではじめて可能な行為がある、ということもわかっている。

人々が共有する気分、共同体のなかで流通する気分が、じょじょに暴力的なものへと変貌していく。私がそれを許容し、その快を受け止め、誰もが同じように感じていることを感じるとき、快感は増幅する。それも、誰もがはじめから知っていたことだ。背中を押されたことはたしかだが、それだけで誰もが迷いなくここまで来た。一揆や略奪や暴動が現実のものになるとは、そういうことであろう。
今ここにあらわれようとする暴力は、過去の反復として再来するものだ。ここには歴史反復の予感が見られるのだが、鷹四の挫折の原因は、その反復を先取りして、自らの宿命のように短絡してしまったところにある。自らの祖先が招き寄せてきたこれまでの歴史的事件から符丁を読み、自分の立場や役割をあらかじめ規定された物語のように自ら設定してはめ込んでしまう。暴力衝動と自己処罰衝動に揺れ動く不安定な自分を、ある大きな役割に投げ入れ、はじめから待っていたかのようにそれに同化する。悲劇の頂点で全自己が消尽される悲劇的かつ英雄的なイメージと、基底にある罪の意識の解消に向かって邁進するも、その試みは挫折する。たしかに歴史は反復するのかもしれないが、それをあらかじめ先取りして行為の根拠にすることは出来ない。その思いが真摯であればあるほど「自分自身をそこまで欺瞞するほどの誠意をもって」…絶望しかない完全な失敗へと進むことになる。