七〇年代へ

大江健三郎万延元年のフットボール」の終盤、鷹四が自殺を遂げてから、ラストへいたるまでの展開の、急速に雲が晴れるかのような、不思議な明るさが挿してくるあの感じは、いったい何だろうか。それがどうも自分には、これはかつて実際に自分も体験した、はるか昔の自分の記憶の片隅にあって保管されている明るさだったと錯覚したくなるようなたぐいの明るさなのだ。

その物語が終わったあと、蜜三郎と妻の菜採子は新しい生活をはじめるために谷間を出ていき、そしてもう二度と谷間へは戻ってこないだろう。蜜三郎は故郷を喪って、弟も死に、養母ジンの寿命もおそらくもう長くはない。彼らはもはや、あらたな場所であらたな生活をはじめるしかない、時代の大きな変化のうねりの先端にいる。このあと、時代としては大学紛争をはじめとする混沌もありつつ、すでにはじまった高度経済成長が爛熟するであろう七十年代だ。安田講堂だの連合赤軍だの三島由紀夫だののあと、何もないまっ平な地平があらわれる。そんなときに自分は生まれて、まだものごころのつくかつかないかの時期に、その光を自分の目で見ているはずなのだ。

これこそがあの光で、あの明るさなのかと、読んでいて思いたくなるのだ。それは自分がというよりも、むしろまだ若かった自分の父と母が、新生活をはじめたなかで日々感じていた新鮮さだったようにも思うが、なにしろ何もないまっ平な埃っぽい地平に、あの時代の若い人々が、これからの生活をはじめたのだなあと、それでこの僕も、ほどなくして生まれて、その光を身体に受け止めたのではないか…と。