墨香

墨汁の香りは、昔から好きだった。子供のころ、僕は字を書くのが昔から上手くなくて、硬筆でも毛筆でも苦手だったのだが、しかし毛筆だけは、硯に墨を入れて準備をするあの儀式めいた感じだけは好きだった。墨を磨ったことなんて一度もなく、毎回墨汁を使うだけだが、そこに強い儀式性とか様式性を感じた理由はおそらくあの香りだろう。香、匂いというものの、過去の記憶を呼び覚まさせる力はすごいものだと思う。今では墨汁をあつかう機会などまったくないけれども、ああ、この香りがなつかしい、好きだと思わせてくれるのは目薬を挿したとき。あれはどんな香料成分なのか知らないけど、目の奥から鼻にかけて、すーっとさわやかな墨のような香りが駆け抜けるのを感じる。あとは、ある種の赤ワインからも、それに近い香りを感じることがある。