逃げた女

ヒューマントラストシネマ有楽町で、ホン・サンス「逃げた女」(2020年)を観た。久々のホン・サンスで、感覚をホン・サンスの周波数に調整…という感じ。

登場人物の食事する様子、喫煙する様子、対話の内容、ひとりになったときの仕草など、画面に映っている一つ一つを映画の観客である僕は観ている。記憶にとどめたある要素は、このあと何らかの要素と関係をもつのではないか、この出来事は、これだけでは終わらないかもしれないとか、すべてが予兆に見えるような、じつは重要なものとそうでないものの格差があるような、ここに映るものだけがすべてではない、読み取るべき隠されたものを意識し続けるような、まるで不安をかかえっぱなしのような、本作にかぎらず、映画を観るとは、多かれ少なかれそんなところがある。しかし本作も含めてホン・サンスは常にそうだが、むしろ見るべきものが無いことに賭けられているというか、そんなものがどれだけ無いものか、何もなさのまま映画を成り立たせてしまえるかが企まれ、目指されていると感じる。いや企みというよりも、あるシンプルな手順にしたがって仕上げました、それだけです、そのことの結果は、ごらんのとおりで、それがこうなった理由はわたしに聞かれても困ります、という感じがある。このような感触は、映画よりも美術作品を観たときに受ける印象に近いと思う。ある美術作家の新作が展示されていると聞いてギャラリーに向かい、会場内に入ってその新作を観たときの、その手順、その振る舞い、その仕草や手癖、その作家の、いつもと同じであり、いつもと少し違う、それらぜんたいの結果が、会場内にもたらすある印象のようなものを、映画から味わっている感じがする。

ただし最後の、ラストシーンを完璧に決めてくるところで、その素晴らしい画面にうっとりするとともに、やはりこれは「映画」であり、映画監督の責任において作られたものだということが示されたように感じる。

画面にあらわれない(誰かの言葉としてあらわれる)登場人物というものについて、こんなふうに存在の気配を感じる/感じないという感覚は「大豆田とわ子」っぽいとも言えるだろうか。