トンカ

ムージルの「三人の女(トンカ)」を読み返していた。この物語には、ある意味トンカという人物が、出てくるわけではなくて、トンカという人物を立上らせようとする、何者かによる、その懸命な努力を刻んでいる、という感じがある。トンカは、ほとんどあらわれない、あらわすことの不可能さをかみしめている、と言ったほうがいい。彼のなかのトンカと、じっさいのトンカが、おそらくどこかの空間にはいた。冒頭でトンカという女性の出自や家族構成が語られ、その直後すぐに、そんなことを書いて何になるのかという、彼でも誰でもない語り手の言葉が挿入され、徒労の気配がただよい、作品そのものへの懐疑、この物語を、語る主体は書き出してからしばらく経っても、まだ続ける確信をもてずにいる。しかしやがて、あきらめたかのように話の続きを進める。僕はすぐにトンカを、十九世紀的な聖なる女性に重ねたくなるのだが、トンカはすでにそのような時代の女性ではないこと、たとえばドストエフスキーのソーニャ的なものではないことを感じてもいる。トンカの幸せとか不幸とかが、作品によって問題にされるのではなく、作品はトンカを救済しないし、おそらくトンカはどのような視点から見ても、高貴な存在ではない。トンカをそのようなものに見なしたい思いは、最後まであがなわれない。なぜなら彼にとってのトンカはトンカではなく、トンカははじめから存在せず、存在したとしても彼にとっての文脈をむずばないからだ。トンカは最期に、彼によろしくと看護婦につたえ、彼はそれを聞く。彼は自分がいっしょに暮らしたのはトンカではなかったのだと思う。トンカのことを考え、トンカの幸せを願ったり、トンカを思う自分を思ったりすることと、トンカが死んでいることも生きていることも、すべてがばらばらに在って、それが当然のことだ。トンカは、神さえもトンカをこころよく思ってない、それを彼は知る。作品の冒頭を過ぎたあたりのその箇所で、僕はある種の衝撃を感じて、これはつまり、その時代を示す境界線なのだと思ったりもした。神様からもこころよく思われない人物の小説を書かねばならない時代がはじまったということなのだろうと。しかし最後まで読み終わって、そういうこととも違うのではないかと、感じてもいる。