小説のなかで、登場人物が直接何を言ってるかよりも、登場人物がそれを言える状況であり、その言葉が広がる場であり、それで何かが変わると信じられた、それをかりそめにでも可能にした条件とは何だったのか?描写ひとつにしても、今そこでそれに着目し、その距離感と執着度合で対象をとらえていること、それで成り立つと思えた理由は何だったのか?それらが書かれた時代、環境、書き手、あらゆる条件を素材にして、そこに賭けられた「成立するかもしれない何か」を推理すること。それは「書いてる」のか「書かされてる」のかを、厳密に判断しながら、ほんとうに拾い上げるべき箇所がどこなのかをひたすら推理しつつ読み込むことが、小説を読むことの面白さの一つであろうと思うし、それがいわゆる小林-江藤-柄谷的な読み方ではないかとも思う。というか小林-江藤-柄谷も特定の条件下でしか書けないというのは当たり前で、小説にせよ批評にせよあたえられた条件下でのダンスにほかならないという認識はおそらく正しい。とはいえ小説や批評が所詮それだけのものならば、それは特段面白いものではないということになるだろう。それはスポーツ競技やゲームのようなものが醸し出す面白さに近いとも言えるし、そう割り切るならば、それはそれで、面白いものでもある。

(そして、そういう場であからさまに「失敗」して、惨めな結果を晒すというのは、それなりに苦い味わいなのだな…と、ある国家プロジェクト主催の出し物をテレビで見ていた「国民」の一員でもある僕は、我ながら意外なほどに、そこそこ深く失望しつつ思った。)

たとえば国家が威信をかけて準備するプロジェクトのイベントは、旬の素材と最新のテクノロジーがふんだんに用いられた、たぶんそれなりに見応えのあるコンテンツにはなるので、そういうものを見る楽しさはある。ただ小説とか、芸術と呼ばれるものの厄介さというには、何かもっと些細でありながら粘着性のもので、しかしその厄介さを見出し、対象化して、駆逐したり是正したり都合よく加工するのは、きわめて難しいものだ。

三宅さんの「双生」で、徴兵された主人公は、ひたすら砂浜に穴を掘らされていて、ひたすら穴同士を横へ横へと繋いで、終戦後はそれらをひたすら埋め返していた。

色川武大「永日」で、主人公の父親は、戦争のおしつまった中で、とつぜん自宅の畳をひたすら上げて、床下の地面を掘り起こして穴を掘り始める。はじめは防空壕かなと思ったが、そういうわけでもないらしく、連日ひたすら片っ端から畳を上げて、床下に穴を掘りまくる。床下は穴でぼこぼこになり、掘った土が狭い庭に積まれて縁側の高さにまでせまる。「永日」の主人公にとって、父という存在を玉ねぎの皮のようにむいてむいて、最後に残るものが、その「穴」だと思っている。ほとんどの人間の皮をむききった根底にあるのが、概念でありイメージであるのに、父親にはその「穴」=具体があると。

この「穴」=具体こそが、芸術の厄介さであり、そうでなければならない。この「穴」=具体がなければ、人と人があらゆる条件を越えて芸術を介してつながるということ自体がなくなってしまう。