デッドマン

ジャームッシュの「デッドマン」(1995年)が、テレビをつけたら放映していたのを久々に観る。もともと好きな作品だが、あらためて観て、やはりこれを自分は好きだと思う。良い悪いではなくて、観ていて、ただただ好きだ。

汽車の乗客がよそ者を見る目でこちらをちらちらと伺っている。よそ者として、ある町にやってきた主人公は、職を得る目論見もあてが外れ、行きずりの女と一夜を共にした翌朝、出戻った男から銃撃を受ける。弾は女の胸を貫通して、主人公の胸の途中にとどまる。相手を返り討ちにした主人公は、馬で逃亡し、森の中で気を失っているところを、原住民の男ノーボディに発見される。名を聞かれて彼は名乗り、ノーボディは彼を「ウィリアム・ブレイク」だと信じる。射殺した男の父親はその町の名士で、父親は息子を殺した主人公を追うべく、尋ね人のビラを大量に巻き、三人の腕利きの殺し屋を雇う。ジョニー・デップが出向いた事務所の所長がジョン・ハートで、奥にいる社長がロバート・ミッチャムである。雇われた殺し屋の中でいちばん凶悪そうな男がランス・ヘンリクセンである。このあたりのおっさんが、どれも渋すぎで、かっこ良過ぎて、それだけでもはや満足感充分にすごい。

自分には、まるで殺人者の自覚などなく、銃の腕前も人並み以下だし、ましてや、いまが死に瀕している絶望的な状況で、異国の死化粧を施し死装束に身を包んでいるだなんて、なおかつ自分が「詩人」だなんて、すべてが夢か冗談のようだけれど、でもそれが現実なのかも、いや、このまま少しずつ意識が失われていくのであれば、この一連の出来事すべてが、自分の実際の人生だったと、それを認めないわけにも行かなそうだと、主人公は思っているのかいないのか、とにかくただぼんやりと、出血によって失った身体の実感を求めるかのように、うつろな目を彷徨わせて、舟の上に身体を横たえている。すべてに自覚ないまま、この生が終わる、終わることで、このお伽話のような映画が終わる。映画を観る者として、そのような終わりかたを、救いに感じるというところはある。