戦争

ナショナル ジオグラフィックの「9.11:アメリカを襲ったあの日の出来事」全六話中の一話と二話を見た。二十年前のことではあるが、今でも昨日のことのように衝撃的で、暗澹たる気分から、しばらくのあいだ立ち直れなくなる。

こういうのを見ると、政局とか情勢とかを知って判断して、正しく適切に行動する、などという言葉が、まやかしとしか思えなくなる。戦略だの戦術だのが、戦争ではない。今ここで、自分という個体がすべての判断根拠をうばわれること、認識という力を人間から根こそぎ奪って、生き物が本来もつ不安と恐怖を呼び起こして直に晒す、これが人間によってもたらされたということ、これこそが戦争と呼ばれる事態だと思う。

戦争は「この私は、こうする」といった主体性そのものを人間から奪う。上に向かうべきか、下に向かうべきか、救出に行くべきか、退避撤退すべきか、今この場所にいて良いのか悪いのか、この直後に何が起きるのか、どこなら安全なのか、どうすれば自分と家族を守れるのか、たった今、この私が、これで正しいのか間違っているのか、それらすべてに対して、拠り所を失って、不安と恐怖に駆られて右往左往するしかない、生き物の本性を、戦争は露呈させる。

「戦争反対」というのは常に、この苦痛を、この悲しみを、この不安を、この恐怖を、この怒りを…という場所から立ち上げなければ、意味がないだろうと思う。それ以外の小理屈がくっついたやつは「戦争反対」ではなくて、むしろ「戦争」に近い。そのような理屈をもてあそぶことで戦争に加担することなく、いつまでもその恐怖と不安と悲しみと怒りを、たった今の出来事であるかのように再生させ続ける必要がある。そのためには、いつまでも執拗に、過去を参照し続ける必要がある。