才能(奇跡)に気付く

少しずつ読み進めているのだが、橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』はじつに面白い。一行ごとに、すごいすごいと言いたくなる。稀代の読み手としての橋本治の力量をしっかりと味わえるし、よく読むということ、つまりそれこそは、愛だな…と、唐突な言葉を、つい思い浮かべたくもなる。

『禁色』の檜俊輔は、どう見ても異性愛者ではない。これは、「同性愛の才能を持てない、潜在的な同性愛者」である。だからこそ『禁色』の中で、檜俊輔は惨めなのである。「同性愛の才能を持てない、潜在的な同性愛者」という表現は奇異かもしれないが、現実にこういう男性はいくらでもいる。三島由紀夫の作品にちらつく同性愛や同性愛的表現を見て胸をゆらめかせているのは、こういう男たちである。彼等は、三島由紀夫の小説を読んで、「分からない」とは言えない。三島由紀夫の小説を読んで「分からない」と言えるのは、女と、本を読まない同性愛者の男と、異性愛者の男だけである。つまり、生きて三島由紀夫がスターだった時代、「同性愛の才能を持てない、潜在的な同性愛者」はいくらでもいたということである。そしておそらく、それは今でも変わらないだろう。
 異性愛者に、「同性愛の才能」という言葉は意味を持たない。「同性愛の才能」などという言葉を受け入れた時、異性愛者は潜在的な同性愛者に変わってしまうからである。

(40頁)

あくまでも三島由紀夫が読まれていて、本人がスターだった時代の話ではあるが、それでもこの指摘は、おそろしく鋭いと思うし、たしかにじっさい、今も変わらないと思う。僕は自分をシスジェンダーヘテロセクシュアルと自覚するが、そうでありながらこの文章に慄くものを感じる。

それが「才能」であるということを、理屈ではなく、他者に対する動かしがたい事実として感じたときに、自分が二つに割れて、おそらく「潜在的な同性愛者」としての自分という想像の余地が生まれる。それが生まれてしまったら、もう取り消すことはできない。以後、自分はずっと「才能がなかったためにそうではない自分」と「ありえたかもしれない自分」との二重になった人生を生きることになる。

ただし、それはおそらく「ほんとうなら、そうなりたかった自分」みたいなことではない。それはむしろ、まだ自分が自分でしかない段階ではぐくんだ幼稚さの残る願望の根を引きずったものでしかない。そうではなくて、もっとよりよく柔軟で快活な、もっと性能の良い、それゆえもっと周囲の役に立つ自分の可能性みたいなものだ。

「同性愛」が世の中の役に立つとか、「同性愛」の方が立派で頭が良いとか、そういう話でもない。もっと根本的な考えの根幹のところの話としてだ。

それは「才能がある人間」と、「才能がある人間に気づける人間」と、「そういうことにまったく無縁な人間」とのちがいを区分けするものでもある。認識する者がすなわち「才能がある人間に気づける人間」に該当するのだろうし、そうありたいが、そのような立場こそが、もっとも惨めであるということも、引き受けなければならない。(でも、そこまで行けば大したものだとも言える、でも無謀だとしても行為は尊いし、その可能性を自ら否定する認識者はやはり醜い。それで結局は、その醜さを受け入れるか否かになるのか、、)