仮面の告白

三島由紀夫仮面の告白」を読んだのは、はるか昔で、しかもあまり面白くなかったという記憶しかなくて、さっき書棚を探したが、いま、その本は手元にないようだ。しかし橋本治によるきわめて鋭利な「仮面の告白」評を読んだら、この小説が三島由紀夫という作家にフィードバックしたものと当時の世の中に伝播したもの、そのパワーがおそろしくリアルに想像できた。なにしろ、三島由紀夫はよくやったんだなあ…と思う。ほとんど国土建設大臣とか、環境構築大臣のようなものだ。日本の国土をまがりなりにも作ろうとした、のかもしれなくて、無残なまでに失敗した人なのだなあ…とも思う。

「愛する者を人に殺させて恍惚とする」という妄想を抱いている段階で、彼は既に「権力者」である。彼はその地位を手放さない。少年期が青年期になっても、彼の妄想の質は変わらない。(150頁)

この指摘の鋭さ。欲望をいかに処理するかと、この私がいかに社会へコミットするのかは、同じ問題である。芸術家の大多数は、その実態は、小さな権力者に過ぎない。そのことをきちんと真正面から問題に出来るか否かは重要である。かつ、それを問題に出来たとして、それをまっとうな方向に解消できるかどうかは、また別の問題である。

芸術家は、彼の所属するその領域において、「愛する者に死を命ずる暴君」になれる。それをする理由を深く考えず、《私は愛する方法を知らないので誤って愛する者を殺してしまふ・あの蛮族の劫掠者のやうであった。》と言うことも可能になる。それが「誠実なこと」であったとしても、芸術家というポジションを獲得してしまえば、その芸術家は「虚」という現実を生きて行くことが出来る。それは、現実を支配する暴君が「暴君」であることを咎められないでいるのと同じことである。現実を支配する権力者は、権力者であるがゆえに、「暴君」という批判を封殺できる。三島由紀夫と彼の生きたその時代において、芸術家は「権力者」であり、「虚」はまた「暴君の自由」でもあった。であればこそ三島由紀夫は、自身を「虚」として設定し続けられたのである。(153頁)

おそらく今では完全に無効になったと思われる、「暴君の自由」としての芸術。それはこの時代まだ有効だった。それはいまや前時代的なものとしか言いようのない芸術観だな…と思うのだが、「仮面の告白」発刊は、1949年、暴君どころか、誰もが窒息寸前の水の中を藻掻いているような時代であったろう。誰もが「自分はどう生きて行くか」のヒントをほしがっていたし、自分の欲望は社会のどこへ位置づくのか、自分と社会との関係がどのように取り結ばれるのかを求めまさぐる、それは文学にも激しい強さで求められていただろう。

仮面の告白』において、三島由紀夫はその「欲望の形」を整理していない。「欲望の形を整理する」が必要なのは、その欲望を抱える人間に「生きて行く」が必要になるからで、「自分はどう生きたいのか」を考えるためだけに、「自分の欲望の形を整理する」は必要になる。しかし『仮面の告白』の著者は、それを提出するだけで、「整理」をしていない。理由は簡単である。『仮面の告白』を書いた時、この著者は既に「芸術家」だったからである。「自分は芸術家である」という前提の下にこの作品を書き、「芸術家として生きて行く」という権利を獲得してしまった者なら、その先に「自分はどう生きて行くか」なんてことを考える必要がない。そこで考えられるべきことは、「芸術家としてどう生きて行くか」だけだ。この点で「芸術家」は「生きない」と言う権利を獲得した暴君と同じものである。だからこそ私=橋本は、その欲望を形が「整理されてない」(傍点)ことの重要性を問う。それは、問われてしかるべきことなのだ。なぜならば、『仮面の告白』は「私小説にあらざる私小説」という特殊な設定を作者から与えられた作品だからである。(中略)

《多くの作家が、それぞれ彼自身の「若き日の藝術家の自画像」を書いた。私がこの小説を書かうとしたのは、その反対の欲求からである。この小説では、「書く人」としての私が完全に捨象される。作家は作中に登場しない。》---それはつまり、これが「私小説にあらざる私小説」として設定されているということで、この作品の作者は、「芸術家としての特権を拒絶している」ということである。「芸術家」なら、「同性愛に対していかなる位置づけをも与えない現実社会」の中で「敗北」を喫したとしても、一向に平気でいるだろう。しかし、この作品を書く三島由紀夫は、『仮面の告白』から「芸術家である自分」を放逐してしまっているのである。であればこそ、本来なら「三島由紀夫=芸術家」になっていれば作者は、「三島由紀夫=虚」を選択せざるをえなくなったのである。その後の三島由紀夫の「死」は、この選択の延長線上にある。(154~155頁)

三島由紀夫というマシンが構築された。とてつもなくハイスペックな、まるでゼロ戦のように秀逸な機体だった。しかし初期設定が致命的に間違っていたので、結果的に「虚」で終わった。…などという簡単な話ではないのだろう。というか、そういう風にしかとらえようがないあらわれ方の作家だった。そして、まごうことなきスターだった、ということか。